(続)「公娼制度」は名前の違う「奴隷制度」であった
(前ページからの続き)
3、188年、働き続けなければ、借金が返せない!
次も証言である。
http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2010/01/post-cf18.html からの転載
次も証言である。
http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2010/01/post-cf18.html からの転載
僕は数学の才能はまったくないけれど、祖父は数字に強かったようだ。遊郭の樓主に雇われた暴徒らに重傷を負わされた1ヶ月後に、『娼妓解放裏話』の著者、沖野岩三郎さんが、救世軍の本営に伊藤君(僕の祖父)を訪問すると、頭部へななめに包帯をまいた伊藤君は、しきりにそろばんをぱちぱちいわせていた。
樓主に買われた女性たちが、どんなに毎日男にもてあそばれて働き続けても、借金は減らずに増えてばかりだという計算をして、女たちを自由廃業させて救い出すことが大事だということを数字で示したかったのだ。
「実に驚いた話です。今まで僕のところへ廃業したいからといって救いを求めて来た娼妓の中の158人に、樓主との貸借関係がどうなっているかと聞いた問いに対して、正確に自分の借金がどのくらいあるかを答えられた女は、わずか70人だけでした。
この70人を廃業させたときに、くわしくその貸借関係を調べてみると、一人分の前借金は、平均337円74銭(今どきの人には、現在ならいくらくらいなのかわからないと思うが)、総計で金2万3千6百41円80銭になっていました。
70人の娼妓が悲しい稼業をさせられた、歳月は合計で1百86年10ヶ月の間、肉をひさいで、やっと3百28円55銭しか、前借金を償却できていない勘定になっています。つまり彼女らは平均2年8ヶ月ずつ、淫売をさせられて、1人前、たった4円69銭3厘の借金払いしかできなかったのです。
さんざん淫乱男のオモチャにされて、死ぬほどの苦しい思いをしながら、1カ年にわずか1円75銭9厘、1ヶ月に割り当てると、たった14銭6厘6毛、1日平均4厘9毛弱ずつしか借金が返せないという仕組みになっているのです。
娼妓に自由廃業を救世軍がすすめることを悪事でも犯すかのように思う人たちは、この計算をひととおり見るがいい。今、この70人が自由廃業をしないで、正直に樓主の言いなり放題になって、稼いで前借金のなくなる日を待つとしたらどうでしょう。
1日平均4厘9毛では、実に188年10ヶ月と6日の長い年月を稼げなければならない計算になるのです。
いかに病気をしない女性であっても、娼妓を188年10ヶ月も勤められるはずがありません。どうしたって1日も早く、公娼全廃まで、こぎつけなければならないが、まず今日のところでは、娼妓自身に「自分たちはお金で買われたからだではない」という自覚だけでも与えてやりたいのです。
伊藤君は、もう洲崎に起こった、恐ろしい迫害も、暴行も、とんと忘れてしまったように、熱心に自由廃業のことを考えているらしい。」
いくら働いても借金が返せない仕組みになっていた女性たち。みんな貧しい家の娘たちで、教育を十分に受けられなかったから、樓主の言うままに働き続けたのだろう。
祖父たちの働きもむなしく、公娼制度は昭和32年の売春防止法の成立まで続いたのだから、なんとも情けない話ではある。
「死ぬほどの苦しい思いをしながら、1カ年にわずか1円75銭9厘、1ヶ月に割り当てると、たった14銭6厘6毛、1日平均4厘9毛弱ずつしか借金が返せないという仕組みになっているのです」
一年に2円弱の借金返済しか、できなかった訳だ。
こうして公娼制度がいかなるものであったか?我々は知るのである。
<参考文献>&<参考サイト>
『共同研究日本軍慰安婦』吉見義明、林博史
『ほんとはHな日本の歴史』『廃娼唱歌 一名自由廃業娼妓の燈』朝倉幾太郎著
『芸娼妓廃業手続独案内』『社会廓清論』山室軍平著
『鬼灯火の実は赤いよ』竹内智恵子著
『公娼制度撤廃の是非 諸方面よりの総合的研究』川崎正子著『婦女禁売論』徳富蘇峰著 廓清会婦人矯風会連合『女給と売笑婦』『娼妓解放話』
『廓清会婦人矯風会廃娼連盟報告 昭和4年度』昭和5.
1909(明治42)年から1912(明治45)年にかけて、東京の吉原、大阪の曾根崎、難波と有名な遊郭が相次いで火災にあい、これを機に全廃しようと、廃娼運動は盛り上がる。1921(大正21)年、国際連盟第2回総会で締結された「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」への加盟を要請された日本政府は、日本の娼妓は自由稼業であるとかわしていたが、結局外圧に負けて1925(大正14)年に娼妓の年齢制限を留保したまま条約を批准した。そのやりとりが報道された結果、世論は政府への批判と公娼廃止へと高まり、廃娼決定との噂もとびかうようになる。1926(大正15)年には廓清会と婦人矯風会の連合組織「廓清会婦人矯風会廃娼連盟」が発足。
『福井市史』資料編一一、『大阪朝日新聞』昭3・12・18)
昭和二年十一月には福井市はじめ敦賀・小浜・大野・勝山・丸岡・三国町のキリスト教関係者が福井市の三秀園に協議会を開催し、「福井県廃娼期成同盟会」の結成を決議した。翌三年五月に廃娼連盟委員長の松宮弥平を迎えて創立大会を開き、規約を決議するとともに廃娼請願運動を行うこととした。そして、同年十二月に「斯して集め得たる請願書の総数は二千四百枚」が県会へ提出された。これをうけて公娼廃止の意見書が、青木清左衛門と高橋長左衛門が提出者となって二一名の賛成者をえて、県会へ提出された。公娼制度は人格ノ尊厳ヲ知ラサリシ封建時代ノ遺風ニシテ、風紀・衛生・教育上有害無益ナルノミナラス、国際条約ヲ無視シ帝国ノ体面ヲ傷クル悪制度ナレハ、速ニ廃止ヲ実現サレンコトヲ望ムと書かれた意見書は、通常県会で満場一致で可決された。県会の廃娼意見書の可決は全国で二番目であり、新聞は「本県の誇り」と報じていた。
<参考サイト>
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E7%9F%AF%E9%A2%A8%E4%BC%9A/m3u/
http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/yuujyo2.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/4884618.html
http://www12.ocn.ne.jp/~shiroku/nannpa.htm
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-4a5-01-02-05-05.htm
http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/myweb1_081.htm
一橋大学大学院博士論文http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=exam&thesisID=268
論文の要旨
序章ではまず公娼制度が国家公認の事実上の人身売買制度であることを指摘した上で、本論文の課題として次の2点を提示する。第1は、公娼制度批判が地域社会でどう形成されたかを、遊興が地域の民衆生活に与えた影響と、それに対して地域社会でどのような公娼制度批判が展開されたかに焦点をあてて明らかにすること、第2は、公娼制度廃止に決定的な契機となった国際的な婦人児童売買禁止の動きを国内の廃娼運動の動向とからめて明らかにすること、である。・・・(略)・・・第二章では、廃娼建議の署名数が全国一であった長野県を対象に、1920年代の地域社会で展開した廃娼運動の検討が行われる。大戦ブームによる空前の好景気を反映して貸座敷などでの遊興が未曾有の繁栄を呈したが、それが20年恐慌下でも継続して家計や経営を圧迫し、経営破綻をもたらして社会問題化する。また1920年代半ばには地方都市や農村にも都市文化の影響が波及する。こうした中で始まった長野県の廃娼運動の担い手は①キリスト教会、②婦人矯風会長野支部、③婦人会・青年会・禁酒会などの修養団体であったが、この3者が廃娼を支持する理由はそれぞれに異なっていた。
以上を参考とする。