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インドネシアでの強制連行

2007年2月15日、米国下院において日本軍従軍慰安婦公聴会が開かれた。以下は戦争中オランダ領インドネシアに在住していた、ジャン・ラフ・オハーン夫人(84才)の証言である。
 
日本軍のインドネシア侵攻前は、彼女はカトリックの修道尼になることをめざしていたそうだ。
 
日本軍降伏後、日本軍の武器がインドネシア人達の手に渡ったこともあって当地の治安は悪化の一途をたどったそうだ。
インドネシアに残されたオランダ人口を保護する為に英軍が現地に派遣された。その一人と恋に落ち、結婚後はイギリスに渡った。その後オーストラリアに家族で移住、現在に至っている。
 
オハーン夫人の父方の祖母がインドネシア人ということだそうで、彼女の容貌はどことなくエキゾティックであり、若い頃の美貌さが今でも充分しのばれる。
 
原文は英文であるが、以下はその日本語訳である。
 
                           
 
私は1923年に当時のオランダ領東インド、現在のインドネシアに生まれた。
植民地オランダ人の四世にあたる。私はシュガープランテーションで生まれ育ち、素晴らしい子供時代を送った。私はカトリックの学校で教育を受け、ジャワ島スマランにあったFranciscan
Teacher's Collegeを卒業した。
 
1942年、私が19才の時に日本軍はジャワ島に侵攻した。数千人のオランダ子女と同様に、私も日本軍が管理した収容所に三年半収容された。
 
そこでオランダ女性が体験した恐怖、蛮行、苦難、飢餓についてはすでに多くの証言がなされてきた。
しかし、これまでに決しておおやけに語られることのなかった体験談があるのだ。それは世の中で一番恥ずべきものであり、第二次世界大戦中に起こった日本人による最悪の人権侵害に関するものである。
 
それは“Comfort Women”、慰安婦達、の体験である。
どのようにしてそういった女達が強制連行され、日本帝国陸軍にセックスサービスを強いられたかというものである。
 
私はオランダ人収容所に二年間いた。1944年になって日本軍の高官達が私達の収容所を訪れた。
17才以上の独身の娘達は皆外に出て整列せよ、との命令がただちに下された。
整列させられた娘達の傍で、将官達による選別がはじまった。彼等は列にそって行ったり来たりを繰り返し、娘達の体つきや足をジロジロ眺め回し、顎を持ち上げたりした。
最後に、彼等は十人の小ぎれいな娘達を選び出した。私はそのうちの一人だった。
私たち十人は前に呼び出され、ただちに移動するので、小さなバッグに必要品を詰めろを命令された。
 
オランダ人収容所全体がこれに抗議した。選ばれた十人の娘達の母親は娘の体にすがりついて必死になっていかせまいとした。私は母を強く抱きしめた。その時私は、再び母と再会することができるのかどうか、全く見当もつかなかった。
 
私達十人は陸軍のトラックに押し込められた。私達は恐怖におののきながら、バッグをひしと抱きかかえ、皆一緒に寄りかたまるのみだった。
 
トラックはスマラン市内の広大なオランダ屋敷の前に到着した。私達は降りろと命令された。
屋内に入るやいなや、この場所が何であるかうすうす見当がついた。
日本人軍人が、私達は日本人の性欲を満足させる目的でここに連行されてきたということを私達に言い渡した。この屋敷はその為の娼家だったのだ。
 
私達一行は大声を張り上げて抗議した。
私達は強制連行され無理やりここにいるのだ、
あなた達にはそんなことを私達にさせる権利はない、
明らかにジュネーブ協定に違反しているではないか、と。
 
しかし軍人達は私達をただあざ笑い、彼等は私達を好きなように出きるのだ、と言い返した。
私達一人一人は日本語の源氏名をあてがわれ、私達のベッドルームのドアにはその名が記された。
 
私達は昔かたぎで性教育とは全く縁のない世代に属してした。
あの恐ろしい“開店夜”の記憶は
一生を通じて私の心をさいなんできた。
 
私達は食堂に行けと命令された。屋敷が軍人で混雑してくるにつれ、私達は恐れおののき、皆で体を寄せ合った。私はカトリックの祈祷書を開いて、祈祷のリードを取った。
皆と一体になって、神の助けを求めた。
 
日本人達が私達を一人、また一人と無理やりひきずっていった。
すぐにベッドルームから悲鳴が聞こえるようになった。
 
私はテーブルの下に身を隠した。しかしすぐにみつかってしまった。
私はその男を力の限り蹴っ飛ばして抵抗した。
その日本軍士官は私がおとなしく言う事をきかないので、もの凄く怒り出した。
彼は軍刀を引き抜いて刃先を私に向け、殺すぞ、と脅かした。
その時わたしは、まるで逃げ場を失った獲物のごとく部屋の隅に身をかがめてうずくまっていたのだ。
                                   〔 chukaのブログ〕さんからの転載