河野談話を守る会のブログ2

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焼かれた大量の証拠文献

大日本帝国の証拠隠滅

さて、ポツダム宣言を受諾した後、大日本帝国は植民地や日本軍の全部隊に証拠書類の焼却処分を指示したのである。


 
戦犯裁判の証拠にされるのを恐れた日本政府とくに陸海軍は、終戦の日から「公文書は破棄すべからず」との連合軍指令が届くまでの数日間に多量の機密文書を焼却、そのため霞ヶ関の空は暗くなったと言われる。
昭和史の謎を追う[下]』 秦郁彦 著 P140
 


また当時の内務省財政課事務官(課長)だった 奥野誠亮  氏もこう述べている


 公文書は焼却するとかといった事柄が決定となり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通して下部に通達する、海軍は海軍の系統を通して下部に通達する、内政関係は地方総監、府県知事、市町村長の系統で通知するということになりました。」

「15日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから、1部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようという事で、小林(与三次)さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の4人が、地域を分担して出かけたのです。」

自治大学校史料編集室編 『山崎内務大臣時代を語る座談会』 より)


この 奥野誠亮 氏http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63578640.html ここで書いたように〔明るい日本・国会議員連盟〕を結成し、会長に納まった。
 
奥野は「慰安婦問題」で、「証拠があるなら出せ」と言っていたが、いやはや何とも言いようの無い人である。証拠を隠滅したから、もう大丈夫だと思っている知能犯に似ている。

だが政府や軍の資料だけが、証拠ではない。目撃証言もあれば、元軍慰安婦達の証言もあるからだ。



              朝鮮総督府の証拠隠滅の現場

こうして日本政府からの通達を受けた朝鮮総督府は証拠を隠滅した

焼かれた大量の行政文書(証拠書類)

朝鮮総督府の臨時雇いであった長田かな子は、1945年8月15日、「玉音放送」を聞いた後、総督府の「中央ドーム真下」の部屋に戻って呆然としていた。そこへ「本課から職員が来て、「燃やして燃やして」とせっかちにいう。気がつくと、庁舎の各階の窓からポンポンと書類を投げ下ろし、油をかけて焼却している。抜けるような青空に、無数の灰が粉雪のように舞った。黒い煙が太く立ちのぼった。誰も無言で、ただ機械的に書類を中庭に投げおろした」と記している。こうして敗戦の詔勅の放送と同時に、重要書類の焼却が始まった。

(長田かな子「45年8月15日」 『季刊三千里』1982年秋号より【日韓歴史共通教材】より  
 日韓交流の歴史 先史から現代まで



こうして大日本帝国政府と軍の証拠書類を、約8割は焼却したと言われている。
 
もし、一部の右翼が言っているように、「日本は、朝鮮半島でいい事ばかりした」と言うのであれば、どうして公文書を燃やす必要があったのか?

しかし、
 「天網恢恢疎にして漏らさず」 

証拠隠滅したからと言って、どうなるものでは無いだろうに・・・・