辻本議員が大きく掲げていた資料
昔中曽根康弘元首相がこう述べた。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるも
のも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこと
もある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところ
もあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシと
もまれてきたのである。」
のも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこと
もある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところ
もあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシと
もまれてきたのである。」
(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部 1978年 90~98ページ)
そこで、中曽根氏は「これは、慰安婦を集めたんじゃないんだ」と言い始めた。外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置を否定した。
武士道の潔さなんてどこにも無いね。
ところが、
高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」が、新しい資料を発見してしまった。この資料には、
(1) 中曽根氏が慰安所建設に積極的にかかわった
(4) 慰安所内の配置図が記録されている
つまり、言い逃れのできない資料が発見されてしまったのである。
これが、辻本議員が大きく掲げていた資料である。