河野談話を守る会のブログ2

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辻本議員が大きく掲げていた資料

 
 
 
 
中曽根康弘元首相がこう述べた。
 
三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるも
のも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこと
もある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところ
もあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシと
もまれてきたのである。」
 
(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部 1978年 90~98ページ)
 
慰安所を造ってやったんだと自慢している訳だが、これはまだ慰安婦論争が起こる前の話だから、こう述べた訳だ。
 
しかし、慰安婦問題が起こると、この証言は軍が慰安所を造った証拠の一つとして取り上げられた。
 
そこで、中曽根氏は「これは、慰安婦を集めたんじゃないんだ」と言い始めた。外国特派員協会記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置を否定した。
 
武士道の潔さなんてどこにも無いね。
 
ところが、
高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」が、新しい資料を発見してしまった。この資料には、
 
(1) 中曽根氏が慰安所建設に積極的にかかわった
(2) インドネシア人女性を集めて慰安所をつくった
(3) 42年3月11日に海軍基地内に慰安所が開設されたなど具体的な記述がある
(4) 慰安所内の配置図が記録されている
 
つまり、言い逃れのできない資料が発見されてしまったのである。
 
「平和資料館・草の家」の岡村正弘館長や馴田正満研究員(63)らは、この資料を防衛省の公開している文書の中から見つけた。高知市平和団体が27日、高知市内で発表したのである。
 
 
これが、辻本議員が大きく掲げていた資料である。