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中山成彬議員の痛すぎる国会答弁

昔、安部氏が政権をとった頃、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の会長をしていたのが中山成彬(元文部科学相)だった。
日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は歴史修正論政治家の集まりだが以前記事にしているので読んでおいていただきたい。
この会は阿部総理とは親しく、現在の安部内閣の閣僚に9人も参加している。
この内閣は歴史修正内閣なのである。
 
中山議員は、ものすごく歴史に疎い人である。
疎い人なのだが、自信満々で、見ていて”痛い”人だ。
 
例えば、つい03月08日の 衆議員予算委員会 ではこんな事を自信満々に答弁していた。
 
・・・・現在使われている高校の日本史の教科書を見ますと、ここに三つの教科書を並べましたけれども、「日本風に改める創氏改名が強制された。」「日本式氏名を強制した創氏改名など、」、創氏改名などを強制した、こういうふうに検定教科書には書いているんです。
 ところが、この左の方を見ていただくと、「氏の創設は自由 強制と誤解するな 総督から注意を促す」、こういう記事があります。そして、内地式に変更、締め切り後も変更することができますよと言っているので、決して強制ではない。
 真ん中の写真を見ますと、創氏改名に殺到しているソウル市民、こういうふうに書いてあるんですね。
 麻生副総理、平成十五年に東大で発言をされたときは、こういう記事を知らなかったでしょう。今、改めて、どういうふうに思われますか。
 
 
 
だめよ、歴史修正!
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歴史学者でもないただの政治家が、専門の歴史学者達が下している結論に対して、随分昔から知られている資料を使って、文句をつけるという”痛い”場面だったので、私はテレビから思わず眼を背けてしまった。自分じゃないのに恥ずかしすぎた。
まるでネット右翼並の知性の劣化である。
 
創氏改名について書いてある当時の事情を示す本といえば、宇垣一成朝鮮総督の秘書だった蒲田沢一郎の 『朝鮮新話』 創元社、1950年)という日記が有名である。「朝鮮新話」は、植民地朝鮮に於ける歴代総督在任中の施政について論評を加えているが、とりわけ7代目総督の南次郎に対しては辛辣に批判する。

南次郎が朝鮮総督に就任した1936年は日本が大陸での泥沼の戦争に突入する前年であった。これ以降朝鮮人に対して過大な戦争協力が求められ、また「皇民化」政策が推進され、激しい圧迫となって朝鮮人を苦しめた。「創氏改名」もその中の一つであり、蒲田はこう書いている。
 
「南統治の中心をなすものは、鮮満一如と内鮮一体であり、朝鮮人の皇国臣民化であつた。鮮満一如といふのがすでに頗る侵略的表現であり、事実当時の関東軍第四課と連絡して、各種の問題で朝鮮の軍国化を図つて行つたのである。
内鮮一体のスローガン実施に当つて、もつとも大きい失政は、世に有名なる創氏と国語常用の問題だ。・・・」
 
「然るに南はそれを全鮮に強制した。」
 
つまり一部の人々が望んだが、それは全朝鮮のごく一部(5月までに15万人)・・・であったので、南はそれを全朝鮮に強制した・・・・・と書いているのである。
最初は、強制していなかったが、やがて強制するようになる。
 
 
「悲劇は至るところで発生し・・・・・その篤志家の家へも、御多分に洩れずに、ぜひ創氏改名せよと面長や郡守から強制して来た。」
 
強制されて、拒否するのだが・・・・
 
「朝鮮の大家族主義は系譜を非常に尊重する。特にこの薜鎭永の家は奮家としての誇りがあつて、祖父から系譜を大切にせよ、名を汚すなと言はれてゐた。だから整然たる系譜をもつこの家名だけは残しておきたいから諒承を乞ふ、決して反日感情のためではない。」
 
「焦つた當局はその愛児の通ふ小学校の教員を動員して、創氏しなければ学校の進級をとめるぞと脅迫したものだ。子供は泣く泣く帰宅して、之を父に訴へぜひ創氏して欲しい、それでなければ学校へゆけないとせがまれて、薜鎭永氏は子供可愛さに遂に決心し、翌日面事務所へ行つて、創氏改名の手続きを完全に済ませ、学校へも届けて子供を喜ばせた上、その翌日、石を抱いて井戸に沈み祖先への申譚を死によつて果したのであつた。」

 
と書かれている。
もし「強制」が無いとすれば、「自殺」など必要ないだろう。
 
創氏改名は、強制だが、当時朝鮮名がそのまま氏になった人達もいた。それは以下の法令による。
 
1940年2月11日から施行されたこの法令は、全ての朝鮮人に強制され、全員が戸籍の上で「氏」を持つようになった。しかし、その「氏」をどのような名前にするかは六ヶ月間に自分で申告する仕組みであった。つまりそこだけが自由選択だったのである。
1939年11月10日の「制令第二十号:朝鮮人の氏名に関する件」には、
「第一条・・・・御歴代御諱又は御名は、之を氏又は名に用ふることを得ず。自己の姓以外の姓は、氏として之を用ふることを得ず
 
 
 
 
              別の強制史料
 
強制を示す別の史料の一つとして帝国議会での創氏改名の強制についての追及 の記録がある。

・・・1943年2月26日の「帝国議会貴族院委員会」

(水野錬太郎) ・・・それから民心を把握することが必要であると云ふことの御話がありましたが、それは其の通りでありますが、時に依ると総督府の上の方の人はさう云ふ考へを持って居るかも知れぬが、地方等へ行って下級の人等が、動もすれば朝鮮の人に圧迫を加へると云ふことがあることもなきにしも非ずであります、殊に一昨年でしたか、あの姓氏令、即ち名前を変へると云ふことがありましたが、何でも非常に成績が好い、殆ど八割迄日本人の名になったと云ふことがありましたが、それが果して彼等の衷心から出たのならば宜いのでありますが、時に依ると警察の圧迫に依って斯う云ふ風にしたのである、或は学校の生徒等が動もすれば父兄がさう云ふ圧迫を受けるからさう云ふ風になったのであると云うやうな不平も聞くのでありますが、此の頃はどうですか、さう云ふ方面は余り無理にやって居らないのありますか、何でも前総督の時には大分さう云ふ方面に力を入れたと云ふことでありますが、今日はもう自然に任して居られるのでありますか、それは如何でありますか、其のことを承りたいのであります・・・

つまり「水野錬太郎」という人から「創氏改名は強制だったんじゃないのか?」という疑問が出て、それに対して政府委員も、創氏改名と(聞かれてもないのに)志願兵制度に強要の事実があることを渋々認ている。

(政府委員田中武雄) ・・・それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官邊の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、諮らずも自分がさう云ったやうなことに対しまして責任の地位に立ちましたので、さう云ったことに対しまして間違って居ることがあるならば是正をして参りたいと考へまして、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申し上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります、併し将来は左様なことのないやうに、適正に運営して参りたいと斯様に存じて居ります、特に志願兵制度等に付きましては、総督の言明でありまして、新聞に何十萬志願者があったと云ふやうなことを余りに書くことは、一面に於いて由なき宣伝のやうにも見えるし、又それが為に“道”の競争と云ふやうな心理を誘発する虞れもあるから、何倍にならうがそんなことは差し支えないから、一切新聞に書かすなと云ふことを厳命されまして、確か今年は何倍あったと云ふやうなことは新聞には一切書かさなかったと記憶を致して居ります。左様な状況でありまするので、将来とも一層留意を致したいと思ひます、次は一つ速記を止めて戴きたい

東京大学出版会帝国議会貴族院委員会速記録昭和篇 複製版104巻 81回議会,昭和17年」より)

 
総督府創氏改名に反対した社説を掲載した『朝鮮日報』(1939、11月11日)「朝鮮民事令改正発布」は、警察に弾圧され、発売禁止となった。
総督府警察は、これを「特殊言動」と呼んでいた。

取り締まりについては、次のような一次史料もある。

 取り締まりの実態

(1)警察署長会議における検事の指示
忠清南道警察署長会議(6月28日)忠清北道警察署長会議(7月2日)での松前大田地方法院検事正の訓示
氏制度の周知徹底方に付ては道当局の御指示もありしこととて、或は相談所を設置し或は座談会を開催し熱心に努力されつゝあるは深謝に堪へざる所でありますが、氏制度創設の理由に付て特に留意すべき点を述べんと思います。〔中略〕

(三)氏制度の施行は八紘一宇の大精神に基くものなること
朝鮮統治の最高指導方針たる内鮮一体は畏くも一視同仁の 聖旨を奉体して生れ出でたるものと拝察致すのでありますが、氏制度の創設は此の内鮮一体の顕現に法律上門戸を開きたるもので、是れ即ち大和大愛の肇国精神たる八紘一宇の発露に外ならないのであります。
然るに巷間当局は氏設定を強制するものに非ずと発表して居るので暫く形勢を観望するのであると公言し居るものが智識階級に相当多数あるとのことを仄聞しましたが、是は彼等が当局の真意を全く誤解せるのであります。〔中略〕
以上の次第でありますので各位は氏制度の周知徹底に付て更に渾身の努力を傾注され所期の効果を挙げられむことを切望して已まないのであります。」

(2)弾圧事件の事例
忠清北道金漢奎事件
金は親族と創氏の問題について話をする中で、「自分は氏創設には断然反対である。一体創氏は何故に為すものか。今政府の制度に従ひ止むを得ず創氏を為すも、子孫に於て祖先たる自分等を憎むかも知れぬ」などと述べ、さらに「内鮮一体」といいながら差別が改められていないことを批判するとともに、将来朝鮮が独立したならもとの朝鮮姓に戻ることになるであろう、と語ったとされる。

 保安法違反で起訴され、懲役一年の判決
担当検事談話「創氏制度は興亜大聖業の完遂上における画期的なもので実に内鮮一体化の世紀的英断として今や半島の津々浦々に至るまで只管感激の歓声に溢れてゐる現状の下に、こんな不穏極まる反国民的言動は断然容赦の余地がない、神聖なる我が国体に対する不遜行為たるのみならず忠良なる半島同胞の名誉を傷けることも又甚大なものである」

・京畿道柳大興事件
一九四一年一二月下旬、京城(現ソウル)郊外の農村で国民総力部落連盟理事長を務める柳大興(創氏名・柳本大興)という農民が知り合いとの宴席で、米の供出が農民を苦しめていること、棉花栽培が強制されていることなど農村の実情を語るとともに、創氏について次のように話したため警察に検挙されたことが記録されている(処分としては起訴猶予となったと思われる)。

朝鮮人の創氏は私の面では九割八分程度に達するが、其の中八割以上は皆何の意味か解せず、当局が無理矢理に勧めるから仕方なく創氏した実情で、私も柳(ヤナギ)として別に柳本と創氏する必要もなかったのであるが、人に強制する立場上柳本と創氏したるも、一般部民は之れに対し非難している。私も反対者の一人である。」(京城地方法院検事局文書)



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