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強姦から見た大東亜戦争史(7)金原節三『陸軍省業務日誌摘録』解説

 
すでにこのブログで金原節三『陸軍省業務日誌摘録』については走り書きしているが、もう少し詳しく解説して欲しいというリクエストがあったので、『季刊 戦争責任研究』の創刊号から吉見教授の解説をさらに解説してみよう。
 
金原節三プロフィール
1901~1976
1926陸軍軍医学校卒業
以後1943まで陸軍省医務局医事課員として勤務、課長、大佐となる
1943,9 近衛第2師団軍医部長としてスマトラ
以後、敗戦までインドシナ
敗戦後、陸上自衛隊
 
陸軍省業務日誌摘録』は、35冊からなり、前半が医務局医事課員としての記録であり、後半が軍医部長としての記録である。
原本は陸上自衛隊衛生学校蔵で一部はまだ公開されていない。
 
さて抜き出して学習しよう。
 
面白いのは第一にこれか?
 

 
 陸軍省局長会報での武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長の応答(1941、4月16日)
 
軍務局長 「(略) 朝鮮の徴兵制度。及び台湾は志願兵制度をしく要望高し。これは政治上問題あるをもって検討いたし度。」
 
兵務局長 「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。従って徴兵制の施行は多いに考慮を要す。」
 
(『陸軍省業務日誌摘録』 前篇 その3のイ)
 
 
 よくウヨ達は、志願兵の徴集に募集の何倍もの人数が並んでいたと言うのだが、実態はこれである。
 
つまり「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。」・・・である。
 
これは陸軍省の幹部が言っているのだ。
 
実態は「強制が多かった」わけだ。
 
 

 
記録を見てみよう。
こうした記録は氷山の一角に過ぎないにしても、参考にはなるはずである。
 
犯罪が相次いだ原因として、佐々木真之介陸軍省人事恩賞課長が1939年にした満州視察の報告では
 
「・・・・中には家族を見ざる事5年余に及ぶものあり、これがため人心荒み
事故犯罪跡を絶たざる状況なり」
(『陸軍省業務日誌摘録』 前篇 その8)
 
と語っている。
 
何ヶ月か戦争に従事すれば、何ヶ月か休暇がとれる欧米の軍人に比べて、日本軍には休暇がほとんどなかった。人間扱いされていなかったからだ。それは、捕虜の扱いや攻撃された際の防御力が極端に削られたゼロ戦の構造を見ても分かるだろう。彼らは「死」を美化したのだ。そのため初期に活躍したパイロットがみな戦死した日本軍は、甚だしい戦力不足に陥った。
この「人間を部品扱いして大切にしない思想」(人権思想の欠如)が、日本軍の真の敗因であった。
 
まだまだ続くよ