河野談話を守る会のブログ2

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人間として扱い休暇をちゃんと与えるのは・・・

前日軍医中尉早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象と其対策」から、次のような文章を紹介した。
 
支那方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備約兵で、妻子を残しての出征であった。
上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間に燻っていた。それらの不満の捌け口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。
「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女凌辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された。」(国府陸軍病院附軍医中尉早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象と其対策」)(P.71~P.72)
 
日本兵にこうした事例が多いのは、人権思想がまったく無かったからである。「お国にために」という名目で出征し、「天皇の代身と思え」と言われて一等兵に殴られ、ろくに休みももらえなかった。「休みをくれ」というと上官から「たるんどる」と殴られるのがオチだからだ。こうして自分の人間性を否定され、虐待された人間は、今度は他人の人権をも否定し、道具として扱いその虐待を始める。「虐待の連鎖」という奴で、イジメられっ子がイジメっ子になるようなものだ。
上の早尾の事例もそういう事だろう。
 
欧米では、兵士達は定期的に休暇をもらってシドニーなどで遊んだようだ。そこで豪軍兵士を動揺させるために日本軍は「君らのことを生きて帰れぬと考える黒ん坊やヤンキーどもが、君らの妻や娘、恋人お凌辱している」という宣伝ビラを撒いたという。(『リンドバーグ第二次大戦日記』下(新潮社1974、P499、44・5)
 
総じて日本軍には悲惨な話が多い。
ある米軍捕虜が、あまりにひどい扱いに「捕虜虐待だ」と文句を言いかけたら、日本の下級兵士が同じような扱いを受けていたのを見て、いえなくなったという笑えない話がある。つまり下級兵士は、「虐待を受けた捕虜」みたいな扱いを受けていたのである。
 
 
 
 
 
 泰緬鉄道建設工事に従事させられていた元捕虜の証言の中に、
 「日本軍は捕虜に対して極めて残虐・残忍であると思っていたが、敗戦で引き上げてくる多くの骸骨のようにやせ細り何の手当もされていない傷だらけの日本軍兵士を見て、自国の兵士をさえこのような状況に追い込む日本軍にとっては、特に捕虜を虐待をしたということではなかったのかも知れない」
というよう内容の証言があったことを覚えている。

 山本七平の「下級将校が見た帝国陸軍」(文春文庫)の中に、「バターン死の行進」について、次のような一節があり思い出したのである。
 だが、収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものではなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そして、これは単に行軍だけではなく他の面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った。
 「卒業までに、お前らの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。
 こういう背景から出てくる本間中将処刑の受け取り方は、次のような言葉になった。
 「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」
 「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への 罪”で全部死刑だな」。