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強姦から見た大東亜戦争史(16)フィリピン「ベイビューホテルの事件」の大量レイプ事件

194523日から1か月間続いた日米両軍によるマニラ市街戦の結果、無辜の市民約10万人が犠牲になった。


フィリピン戦については、元軍人の書いた参考文献として

『悲劇の将軍』 『戦記バタアン半島』 『落日のマニラ』 『最前線爆雷製造部隊』 『ルソン戦とフィリピン人』 『比島軍医戦記』 『山中放浪』 『虜人日記』 『ミンダナオ島敗戦記』 『敗兵』 『回想のフィリピン戦線』 『ある陸軍予備士官の手記』 『海軍報道戦記』 『セレベス戦記』 『ぼくの大東亜戦争』 『消灯ラッパと兵隊』 『泣き虫軍医物語』 『南海の青春』 『証言・太平洋戦争』 『フィリピン敗走記―一兵士の見たルソン戦の真実』などがある。

多くの著作で虐殺と強姦が語られているが、ここでは『ルソン死闘記』(友清高志・著) をみてみよう。

昭和19年末~20年 ルソン島
振武集団の藤重支隊(偽名称・藤兵団)に属した人の記述によるとゲリラと疑わしい住民の意図的かつ大規模な虐殺が実行された。
無条件殺戮である。
「できるだけ多数を、一ヶ所に集め一挙に殺せ」との指示があったことなど、
「暴虐の限りをつくした」という部隊の行為を具体的に記して自分たちも潔白ではないと述べている。


リパ地区H憲兵の野太い声が、耳の底にまだ残っている。
「敵が上陸するまで強姦するな。上陸したらかまわんからやれ。
ただし、やった女は必ず殺してしまえ。」



(「ルソン死闘記」友清高志・著 講談社による)

敵が上陸するまで待って強姦するのは、強姦を米兵の仕業にするためである。ひどい連中である。

フィリピンにおける日本軍の数多くの残虐行為は有名だが、とりわけ、悪名高いのが「ベイビューホテルの事件」である。


以下、林博史教授のホームページから http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper101.htm

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(略)
29日から12日(一部は13日)にかけて、日本軍がマニラの中心にあるエルミタ地区の女性たち数百人をベイビューホテルとその近くのアパートメントに監禁し、日本兵たちが次々と強かんを繰り返した事件である。被害者には、フィリピン女性だけでなく、アメリカ、イギリス、スペイン、ロシア、イタリアなど欧米諸国の女性たちも含まれている。

(略)
幸い、ベイビューホテルに監禁された女性たちは殺されることなく釈放されたので、生存者たちによる証言が多数残され、惨い実態が明らかにされている。マニラを日本軍から解放した米軍は、戦争犯罪捜査にあたって、関連する女性たちに尋問をおこない詳細な尋問調書を残している。その一部は山下奉文陸軍大将の戦犯裁判や東京裁判にも証拠書類として提出されており、またいくつかの英語文献ではその尋問の一部が引用されている。しかし112人にのぼる尋問調書を総合的に分析した研究はまだない。
第二次世界大戦中の日本軍による強かん事件は数多く、日本軍「慰安婦」制度とともに日本軍の性暴力の際立ったひどさが、日本軍の特徴あるいは残虐性を示すものとして指摘されることが多いが、このベイビューホテル事件は、強かん事件のなかでもとりわけ規模が大きく、かつ組織的であると思われる。

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ではその強姦の証言を聞いてみよう。

しかし彼女も日本兵によって引きずりだされて別に部屋に連れて行かれ、抵抗し叫ぶ彼女に平手打ちをくわえ、左手でのど元を押さえ、右手で剣を持ちのどに突きつけ、抵抗をあきらめさせたうえで強かんした。その後、部屋に放置された彼女は元の部屋にもどろうとするが、わからず別の部屋に入った。しかしその部屋にいたときにも、夜中に、日本兵によって抵抗する彼女の髪をつかんで床にたたきつけられ、最初に強かんされたときと同じ部屋に連行され、また強かんされた。翌朝、母が呼ぶ声が聞こえたので、母のいるダイニングルームへ逃げたという

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その姉で17歳のイギリス人少女も同じコーヒーポット・グループに入れられた(1-10)。その証言によると、自分は部屋の隅にひそんでいて幸運にも助かったが、部屋には13-4歳の少女がたくさんおり、「少女たちはみな泣き叫び、すすり泣き、悲鳴を上げ、多くは祈っていた」と語っている。
24歳のフィリピン人女性の証言によると(1-14)、まず3人の日本兵によって彼女の2人の姉妹が連行された。次に別の少女たちが連行され、その次にほかの少女と本人が連行された。彼女が連行された部屋には3人の日本兵がおり、1人が強かんしている間、ほかの2人は見ながら笑っていたという。彼女は抵抗するが顔を殴られ、3人に強かんされた。その後、3人の日本兵は部屋から出て行ったので、1人で這って部屋にもどったが、しばらくして別の日本兵に連行されて同じ目にあった。その夜、10数回強かんされたという。
 
(略)
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をご覧ください。


これについて「第2大隊本部あるいはその上級司令部(マニラ海軍防衛隊)からの命令による狩り出しであったことは間違いないだろう。」と林教授は書いている。上に挙げた『ルソン死闘記』でリパ地区H憲兵

「敵が上陸するまで強姦するな。上陸したらかまわんからやれ。
ただし、やった女は必ず殺してしまえ。」

と命令したように、戦争末期の日本軍はすでにヤケクソになり、「敵の女だから殺す前に姦れ」とばかりに上官の命令、ないしは許可の下、強姦行為が蔓延していたのであった。

大日本帝国はすばらしい」教の信者さん達は、こういう情報に接すると無碍に否定しがちだが、あいにくとフィリピンにおける暴虐は日本軍の元兵士の残した記録も含め、大量に存在している。

無視するのは不可能である。