河野談話を守る会のブログ2

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保守は寛容か?


日本の保守の中には「保守」「右翼」という言葉を理想化して
嫌韓反韓・反米が保守とか右翼とかを冠するのはおかしい。安倍総理が言うようにヘイトスピーチは日本の保守主義が持つ寛容性に反する。先人が目指したアジアの連帯とも逆を行く全く新しい思想。それは保守の歴史的な伝統から離れたものだ」

などと唱えて、在特会などのヘイト団体と自分達の距離を置こうとする人々がいる。

しかしそれは、間違った見解である。

日本の歴史の中で「保守」=「国粋主義」の中核部分は、常に 排外的であった。
彼らは維新期の国粋主義者たちの「尊王攘夷運動」が排外主義であった事を忘れている。「日本の保守は寛容だ」というテーゼ自体が証明されていない考えでしかない。

古代の物部氏による仏殿の焼却や尼僧の監禁の理由は「我が国は神々の国だから」というものだった。
これは秀吉の「バテレン追放令」の理由でもあり、明治維新期の攘夷運動の外国人排撃テロの理由でもあったのだ。

維新期、江戸末期に勃興した国学、水戸学などの国粋主義に染まっていた若者たちは、尊王を唱えながら外国人排撃テロを行った。


「日本は神々の国だから」=つまり「国体思想」である。

この国体思想がもっとも広まり、かつ活性化したのが太平洋戦争の時代だった。国体明徴が発表され、国体に反する宗教・思想が全て弾圧されて行った。

そしてその維新期の外国人排撃の思想を引き継ぎ、米英を「夷狄」「鬼畜米英」と呼んで憎んでいた第二次世界大戦期の日本では、国粋主義者が闊歩していた。これは「外国人に対する排斥の思想である」と言える。

ゆえに今日保守陣営に「反韓」「反米」の排外思想が盛り上がるのも、予想外ではない。日本にはそういう病んだ部分があるからだ。

そういう病んだ部分がある国なのだと理解しておくべきである。
人は誰でも、何かを美化したり理想化したりしている。
日本の「保守」を理想化したい人たちは、 「保守は寛容だ」とか「神道は自然にやさしい」とか述べる。

しかしそれはどちらもまったく証明されていない。

どのような主張をするのも勝手だが、その主張が正しいと思うならぜひとも証明していただきたいものだ。