強姦から見た大東亜戦争史(17) 「フィリピンを襲った強姦の嵐」
横田雄一弁護士は、「他の地域に比べてフィリピンでは、被害者と軍の間に民間業者が介在する余地はまったくなく」「軍の移動中における偶然の遭遇、計画的とも思われる女性の自宅への襲撃」「作戦行動中の強制連行」など「有無をも言わさず暴力的に女性を駐屯地に拉致」が特徴だという。
ついでに”フィリピン第14軍は軍規が乱れていると風評で、42年の陸軍省会議で大山法務局長は、「南方軍の犯罪件数237件・・・第14軍には強姦多し」と書き、42年までに犯罪件数444件の内第14軍が252件を占める”という。
ディオニシオ・プラスは、バターンを頭を殴られながら歩き、やがて脱走し故郷の村に帰ったが、日本軍は義弟を殺し、彼の婚約者を含め村の娘達を強姦していたという。怒り狂った彼はゲリラとなって日本軍と戦うことになる。
こんな事をしていれば、周り中が敵だらけになるに決まっている。
当時、フィリピンの女性達を強姦の嵐が襲ったのである。
元慰安婦のロラ達の証言でもほとんどが強姦されており、プラシラ・バルトルコは、1943年、17才の時に塹壕に隠れているところを日本軍につかまり、15才の従妹は強姦された末にその場で殺された。彼女の方はは駐屯地となっていた小学校に連れて行かれ、監禁され連日強姦された。この話に多少でも救いがあるとすれば、彼女を逃がしてくれた日本兵がいた事である。
(戦争犠牲者を心に刻む会『私は慰安婦ではない』P99~103)
日本兵がいかなる行動をとったのか?われわれは様々な元日本兵の書き遺した日記や戦記によっていくらか知る事ができる。もちろんレイテ戦で生存者が皆無に近い第16師団のように記録されていないものもある。フィリピンにおいては送り込まれた日本兵60万人の内、50万人が戦死したが、それ以上に100万人近い現地の人々が殺された。有名なバターンでも死亡した8割は現地の人だというが、そのバターンの後に大がかりなゲリラ討伐作戦が行われ村人を見境なく殺したようだ。
パウラ・アティリョの証言によると、彼女が暮らしていたカツンガンという村に日本軍が来ると、大勢のゲリラを殺した後、女性は強姦され、内何人かは殺されたという。「「日本軍はフィリピン人を見れば、男も女も子供も年寄りも見境なく虐待し、残酷に殺した」と証言している。13才の時、彼女は酷い虐殺の現場を逃げ出した後に、複数の日本兵に輪姦された。母親と妹はその時死んだという。
(戦争犠牲者を心に刻む会『私は慰安婦ではない』P104~108)
ピラール・フリアスは、1943年、16才の時に日本兵に輪姦され、1944年日本兵に再び捕まり、ゲリラ討伐の山中でまた輪姦された。その間、ナイフで鼻をつかれ、殴られたり蹴られたりしたという。腰紐につながれ、約2カ月間強姦され続けたが、米軍の進攻によって解放された。
(戦争犠牲者を心に刻む会『私は慰安婦ではない』P109~113)
右翼な人たちは、こうした証言がウソだと信じたいようだ。確かに個々の事例に対して目撃者はいないだろう。それは当たり前であり、平時でも強姦の目撃者などというものはほとんどいない。それは大抵は密室で行われるからだ。ましてや戦争でたくさんの人が殺されたり強姦されたりした中で、誰がどんな風に殺され、どんな風に強姦されたのかをいちいち記憶するだろうか?そんな事はあり得ないだろう。70年も昔に起こった事件の個々の犯人を見つける事さえできないのだ。
しかしだからこそ、国が責任を持つべきである。
犯人も分からない状態では、その犯人が償うわけには行かないし、何よりもこれは国が始めた戦争だからだ。日本国が引き起こした侵略戦争の中で、たくさんのフィリピンの人を殺し、強姦したのである。だから日本国が謝り、補償すべきなのは当たり前である。
侵略し、犯し、殺した
そうさせたのは大日本帝国であった