河野談話を守る会のブログ2

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騙し・就業詐欺によって強制連行した事例




たくさんの元慰安婦達が騙されて慰安婦にさせられたと述べている。それは、元日本軍軍人たちの証言によって裏づけられている。

秦郁彦慰安婦と戦場の性』のp382~p387で、騙されて慰安婦にさせられた軍人の証言を7例あげている。秦はこれを「強制連行と思い込んだ」などと書いているが、すでに考察して来たように「騙して連れて行った」のも強制連行なのである。一例を挙げておこう。これもまた戦前の刑法第33章の『略取及び誘拐の罪』の第226条の違反でありが、国外移送罪が適用されるだろう。

東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』
(初出:新読書社,1967年)

海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インドニコバル諸島
 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされわかって彼女らは泣きわめいたという

秦郁彦慰安婦戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用)


明らかに欺罔、就業詐欺により、国外に移送されているのである。憲兵の中には、こうした事例に同情的な者もいたが、送り返した例は少ない。軍自体が意思を持って「慰安所」を造ろうとしているのだからこれに反対できる軍人がいる訳がない。それどころか憲兵自体が強姦した例や慰安婦を集めた例も存在しており、女衒が集めた女性達を解放するような意思は見られない。
そもそも、この業者を選抜し、許可書を与えたのは軍であった。軍が自分で経営するわけにはいかないので、業者を選んだのである。


で書いたように、公式史料においても、当時の回想録においても、業者は軍属待遇を与えられ、軍の代理として慰安婦を集めたのである。

「業者のみなさんが自主的にこれを経営するという形を取りたい」
 「何処迄も経営者の自発的希望に基く様取運び之を選定する」
 「本件極秘に」

すなはち、軍は業者が女性を集めるように求め、ほう助し、あるいは結託して犯罪を行ったのである。

秦郁彦が掲載した史料には、部隊に炊事などの手伝いに来た(大陸慰問団〉の日本人女性二百人が慰安婦にさせられた話があるが、業者がこんな事をできる訳がないので、明らかに軍がやった事であろう。
 

第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
場所:中国中部の山東省
 一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という
日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ
着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだとい
われたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“的はち
がったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が
彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州女学
を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられた
と泣く女性がいた

秦郁彦慰安婦戦場の性』潮社,1999年,p.382)



さて、できるだけ騙された例を掲載しておこう。




長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年
関東軍兵士の記録、場所:中国東北部黒竜江省
 東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も…… (一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と営業するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。
 これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……
 おれは東京吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。



土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社1977年
スマトラパレンバン憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、場所:インドネシアスマトラ島
 (慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
 私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮従軍看護婦女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。
 彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……
 将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。



菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還光人社,2005年
ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録
 帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。……メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる女たちの一団(十五、六名)が休息していた。大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
 なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った


「彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。」(『水木しげるラバウル戦記』筑摩書房,1994年)

(「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげるhttp://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.htmlより)



長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年
軍医の記録、日本から騙されて連れてこられた女性について。場所:中国中部・湖北省武漢
 赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉でなきじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く……

小俣行男『戦場と記者 - 日華事変太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ
 (朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか
 考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。「その後この少女たちはどうなったろうか」