在特会の文化社抗議文の奇怪な内容
(抗議文)
この抗議文がまずおかしいのは、「編集部の了解のもとに世に出された作品であり作者およびぶんか社の責任は免れないものです」などと書いて、出版社に責任を負わそうとしているところである。しかし、これは出版社の勝手と言える。
例えば、誰かが「私はUFOを見た」と書いたとして、それが真実であるか?否か?に関わらず、主張する権利もあれば、出版する権利もある。このような権利に対する攻撃である。
しかしこの抗議文、在特会が信奉しているらしい虚偽の歴史をツラツラと書いている。また文化社側には出典、根拠を要求しているが、自分達の書いたものにはほとんど出典、根拠をつけていない。在特会にはぜひ出典があるなら出典、根拠をつけていただきたいものである。
まず、全体から言えるのは様々な説があるものの中から一部だけを取り出しそれを「定説」のように書き、それを基に批判・攻撃している。また「定説」があるものは、いわいる「歴史修正論」の主張をもって定説であるかのように述べている。
少し反論しておこう。全文は上記、でご覧ください。
①(在特会の主張↓)
「作中の海外における強姦発生件数の比較についていかなる資料を持って論じているのか適示ください。」と言う事なので示しておこう。
○「強姦は減らなかった」は、当時の人の証言にもあり。
A)『岡村寧次大将史料』の戦場回想編に(一時強姦はやんだが)「慰安婦団を同行しながら、・・・跡を絶たない」と書いてある。
B)軍に戦地の状況の報告を求められた精神科医=軍医中尉早尾乕雄も『戦場心理ノ研究」』第八章 「戦争ト性欲」で
「内地では到底許されない強姦も敵地の女だから自由にしてもいいのだと思っていた」
とか
(『慰安婦と戦場の性』P159)と書いているほどである。
②(在特会の主張↓)
「性病発生数の基準をどこに取るかによって変わりますが、遠因となったシベリア出兵時と比較すれば劇的に減少しています」と書いているが、ちゃんと根拠となる史料をあげて欲しいものだ。
性病に関しては
③(在特会の主張↓)
という事だが、秦郁彦の説に過ぎないのであり、定説とは到底言えない。
まず総数だが、第一人者の中央大学吉見義明氏は、4万5千~20万人にしているから、「8万~20万人」とそんなに違う数でもないだろう。http://www.awf.or.jp/1/facts-07.html(アジア女性基金)
秦の総数に対しては永井和京都大学教授(近現代専門)による的確な批判反論がなされている。
☆-1 2008-04-02秦郁彦氏の慰安婦数推計法の誤謬について(1)☆-2 2008-04-05秦郁彦氏の慰安婦数推計法の誤謬について(2)
慰安婦の民族別比率史料は包括的なものが存在しないが、
A)1938年末から1939年までの華中の数(民族比込み)の記録が残っています。
B)また麻生軍医の『上海より上海へ』でも38年ごろの性病検査でも8割が朝鮮人と書いてる。
その後、
そして以下のような証言もある。
「・・いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった」と書かれている。
E) 鈴木俊雄軍医 が書いた『回想のフィリピン戦線』 によると
④(在特会の主張↓)
慰安婦の総数についての諸説は分かれるにしても、慰安婦の人種割合についてはこれまで秦氏の調査結果を否定する材料はみつかっていません。そこでこの割数に基づいて仮に朝鮮人慰安婦20万人説を採用した場合どうなるでしょうか?まず慰安婦全体の総数は100万人となります。さらに韓国側が主張している「慰安婦一人あたり平均で一日10人以上の日本兵の相手をした」をあてはめれば、何と慰安婦全体で一日1000万人以上の客を一年365日相手にしていたということになります。
(反論↓)
a)という事ですが、これは交替率をどうとるかや人種比率をどうとるか?によって違いますから定説はありません。重労働であった慰安婦は、1932年以降、少なくとも5、6回の交替があったものと思われる。
b)『従軍慰安所「海乃家」の伝言―海軍特別陸戦』...を書いた華 公平氏は、慰安所経営者の息子さんでしたが、父親が毎年補充にために日本に帰っていた事を書いている。上海は戦地ではないにも関わらず、毎年交替するとしたら、戦地の近くではどれほどの交替率だったか?
⑤(在特会の主張↓)
と在特会は書いているが、韓国の誰がいつそうした主張をしたのか?出典をつけるべきである。
⑥(在特会の主張↓)
「併合問題ですが、当時の国際法に基づいて双方の政府合意のもとに併合条約が交わされており、武力を持って現地を踏みつぶす欧米の植民地支配とはまったく異なるものです。とくにその統治内容を欧米植民地と比較すれば、社会インフラ整備や学校・病院などの建設、近代法治の確立などはもちろん、何より欧米植民地では必ず導入されていた人頭税がなかったことでも韓国併合は断じて植民地化ではありませんでした。」
については
「政府合意のもとに併合条約」が結ばれたのか否かは疑問の多い部分である。
インフラ整備はしたのは事実。いまだに韓国人に聖人と慕われ、碑が建てられている浅川巧などの活躍により植樹もなされた。しかしインフラ整備は、日本経営の工業化の補完であったし、道路工事などの受注は全て日本人経営企業が行った。民衆の生活向上には役に立たなかった。
(『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p34~37岩波)
(朴宗根著『日清戦争と朝鮮』青木書店)
(反骨の士である“耕堂”中野正剛『我が観たる満鮮』(大正四年五月二十八日 政教社)で「夫役」の実態をレポートしている)
(『大正八年 朝鮮騒擾事件状況』 朝鮮憲兵隊司令部 1919年(昭和44年9月20日発行復刻版・極東研究所出版会))では、「賦役の厳しさが 反抗の原因になってると伝えている。(http://www10.ocn.ne.jp/~war/buyaku.htm)
朝鮮に対する収奪は、多数の歴史学者が書いている。
⑦(在特会の主張↓)
「作中では「日帝に土地を奪われた」とありますが、まず李朝末期に国民構成の8割以上を占めていた白丁などの賤民階層は「農奴」状態であり土地を持つことなどあり得ない状態でした。そのため、日本は韓国併合後に奴隷解放を行い彼らに市民権を与えたのです。そして、同じく併合後に日本は朝鮮半島の精密な土地調査を行い、李朝時代に両班など支配階級が隠してきた「隠田」を接収しました。この隠田は中央政府に報告されなかった耕作地で、李朝末期に報告されていた耕作地面積の4割にのぼるものでした。」
という意見について
「李朝末期に国民構成の8割以上を賤民階層」という考えだが
「1801年には、王室・宮家や中央官庁に属する奴婢が多く解放され、奴婢制度解体の動きは最後の段階に入った。
奴婢・良民の身分上昇の動きも一層進んだため、両班・良民・奴婢の身分制自体は残ったが、身分差別はしだいに弱体化していく事になった。」武
と歴史学者は書いている。
「日本は韓国併合後に白丁を奴隷解放した」という主張だが、まず白丁は奴隷ではないし、「身分制度を無くした」のは、併合よりも10年以上前の「光武改革」(1894, 甲午改革)だった。身分差別に対して不徹底で小規模であったが、それは日本の改革も同じであり、日本国内で水平社が差別撤廃の努力したように、韓国朝鮮でも息の長い民間の努力がなされた。しかしその努力も虚しく最近「エッタ」などと叫ぶ差別ヘイト・グループがいる事は教育の衰退と言えるだろう。
「日本は奴隷制度の解放者」として捉えるのは最初から無理である。
「両班など支配階級が隠してきた「隠田」」だそうだが、ぜひ根拠を示していただきたい。
「耕作地面積の4割」も土地を奪ったなら、相当生活が苦しくなっただろう。
(続く)