河野談話を守る会のブログ2

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続・在特会の文化社抗議文の奇怪な内容


日韓併合の中で、日本側は様々な苦しみを朝鮮人に負わせた。それは単純な歴史事実であろう。総督府が朝鮮民衆に押し付けたシステムは朝鮮民衆のためになされたのではなく、全て日本政府と議会の方を向いてなされていた。しかし近年になってこれを変えようとする歴史修正論が唱えられるようになった。

歴史修正主義とは、「都合の悪い事実は認めない主義」の事である。
「あった」事も「なかった」と言い張り、その言い逃れができなくなると今度は、「あっても書くべきではない」とか言い出す。

どうしても歴史事実を無視するので、多くの歴史学者は、反発している。
水野直樹教授達が『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』 を書いたのも当然であった。
複数の第一次史料を使って事実を探究しようとする近代的な実証的歴史学者たちが到達する結論に欠点がないとは到底言えないかもしれないが、ごく一部の史料を恣意的に使うだけの非専門家集団に真実があるとはさらに言えないのである。人間は誰でも、自分の信じたい事を信じる権利があるのは現代人権思想の基礎である。しかしその自分が信じるだけの歴史を用いて言論と出版の自由を攻撃すべきではない。歴史学の現時点での到達点は歴史辞典などを参考にすべきである。
「日本は朝鮮の解放者」と主張する在特会を見ていると「ナチスユダヤ人の友だった」と唱えたネオナチを思い出した。



(前頁からの続き)


⑧(在特会の主張↓)
「この李朝末期の支配階級による不正行為を糺し、正確な耕作地面積を割り出し、その土地の分配を行うことで農奴であった朝鮮人たちを救ったのが日本なのです。」
という意見について

すでに述べて来たがこのストーリーは無理である。秀吉が「検地・刀狩り」をしたのは、農民達が収穫を領主に隠すのを知ってたからだ。そこで綿密に調べ、逃げられなくした。そのやり方を併合した朝鮮半島でも行ったが、これは「徹底した収奪のためである」というしかない。朝鮮半島の測量はいい加減で、農民は収穫を誤魔化す事ができたが、併合下では逃れられなくなった。

総督府において日本人が高級官僚を独占し、警察署長や道警務部長には朝鮮人を登用しないという不文律があった。
小磯国昭『葛山鴻爪』p757
(『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p16 岩波)

また、朝鮮人の給料は、日本人の半分が相場だった。
(『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p16~19 岩波)

朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』p12、明石)
陳昌鉉著『海峡を渡るバイオリン』河出2002年p69~72より)


日本に併合され、それは植民地ではなく、平等な権利が付与されたというのなら、衆議院への選挙権を朝鮮半島住民にも与えなければならなかったが、そのような権利は与えられず、「内地」で選抜された議員が一人いただけだった。末期の「選挙法改正」は、朝鮮からの議員定数は、23人/466人のごく少数であったし、内地では男子は普通選挙だったが、朝鮮では国税15円以上治める男子と規定されていた。
(『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p17 岩波)



⑨(在特会の主張↓)
「(1938年)の教育令によって学校において朝鮮語の選択は任意」
という意見について

任意ではなく様々な圧力があった。第一「義務教育」自体が実行されなかったので、普通学校への就学率が1930年の時点で、16パーセントに過ぎなかった。
(『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p20,21岩波)



⑩(在特会の主張↓)
「国民階層の大多数を占めていた賤民には氏がなく」
という意見について


 「氏がない」のはあたりまえであり、朝鮮には「姓」があった。氏がある人間はいない。




⑪(在特会の主張↓)
「その後、朝鮮半島内部から「同じ帝国臣民なのに朝鮮人が日本式名前を名乗れないのはおかしい」と声が上がったため、朝鮮民事令を改正して有料許可制のもとで朝鮮名から日本名への改名を許可したのです。実際、有料制であったため改名しないものも多くおり、昭和25年までの時点で2割ほどの朝鮮人がそのまま朝鮮名を使っていました。」
という意見について

歴史学者、たとえば水野直樹の『創氏改名―日本の朝鮮支配の中で』では「法令の運用が極めて強い強制の中でなされた事を明らかにしている。改名は任意だが、「創氏」は100パーセントなされており、それは法令がある強制であった。2割の朝鮮名」は「姓」がそのまま「氏」になっただけで、創氏自体はなされている。

宇垣一成朝鮮総督の秘書だった蒲田沢一郎の 『朝鮮新話』 創元社、1950年)にも、「・・・南はそれを全鮮に強制した」と書かれている。

創氏改名は、朝鮮の伝統的な宗族関係を否定して、日本的な家族制度に組み込む事を意味していたのである。(『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p46,47 岩波)