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日本人慰安婦について 【河野談話を守る会;論文集】



日本人慰安婦について
 河野談話を守る会;論文集】



            大日本帝国の差別構造

当時日本人にとって日本人である事はそれだけで勝ち誇るべき事だった。満州事変の首謀者たる石原莞爾が「最終戦争論」の中で「天皇のいる国=王道の国である」と驕った言い回しをしたように天皇の存在そのものが劣等感の強い人々にとっては誇りだったようだ。そこから朝鮮人差別などがなされたのである。「五族協和」を謳った満州国にしても、実態は日本人を一等国民とし、朝鮮人を二等国民、現地の満州人を三等国民とした酷い差別構造が造られた。それは厳然たる賃金格差として現れており、同じ労働を行っても、他民族は日本人の半分以下と相場は決まっていた。
満州国関東軍』、『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』p16~19、海峡を渡るバイオリン』p69~72、朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』p12

こうした民族差別は日本が仕掛けた戦争中つねに存在し、同盟国であったはずのタイ人をさえバカにするので嫌われていたほどである。 『父と日本に捨てられて』 瀬戸正夫著  p115)

そしてこれらの差別構造が戦地の慰安所の中さえも支配していた。

戦中の会が編集した『戦中派の遺言』の中でラバウルでは・・・・

「日本の女性と朝鮮の女性とは、待遇から料金まで、あらゆるところに差別がありました。例えば・・・・・・兵隊さん相手のは、日本 人で3円、朝鮮女性は2円か1円50銭でした」
と書いている。





       日本人慰安婦は将校相手で1日に一人・・・が多い

広田和子氏の書いた『証言記録従軍慰安婦・看護婦』に登場する菊丸(山内)さんという日本人慰安婦は,「あたしたちは将校用だったため」に「慰安婦としては恵まれていた」「1日1人の相手をすればいい」と証言している。日本人慰安婦でも複数の相手をさせられる事もあったが(p51)比較的楽だったようだ。
水野いくさんも「1日一人相手にすれば良かった。朝鮮人とクロンボはたくさん客をとらされていた。」という。(『思川ー山谷に生きた女たち 貧困・性・暴力 もうひとつの戦後女性史』宮下忠子
神道さんのように、1日に70人も相手にした結果子宮が腫れたが休憩させてもらえなかったとかいう話は、日本人慰安婦の場合は聞いたことがない。

1941年20歳の時ソ満国境付近の「慰安所」に入れられた黄錦周さんは、「一日に相手にした軍人の数は30~40人くらいでしたが、休日には軍人達がふんどし一枚で列をつくるほど押し寄せました。(中略)子宮が腫れて血膿がでて兵隊の相手をすることができなかった日、ある将校が来て相手ができないなら、代わりに・・・・・・するとその将校は『この野朗、殺してやろうか』といってめちゃめちゃに殴る蹴るの暴行を加えました。・・・」と語っている。

『証言ー強制連行された朝鮮人慰安婦達』より




      日本人慰安婦の多くは慰安所に行く前にすでに遊郭に従事しており、
     それまで勤めていた遊郭よりも厚遇が約束されていた場合が多い

警察資料である【南支方面渡航婦女の取り扱いに関する件】(以下警察資料数件)や玉の井挽歌』青蛙房、1983)によれば、1938年ごろ軍は業者に軍慰安婦を集めるように依頼し、日本内地で警察や女衒が女性を集めた。また遊郭業者が戦地に支店を出したりしている。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63995967.html
こうして多くの遊郭の女性が渡航したのである。

日本人慰安婦の場合、「慰安婦」になった時にはすでに遊郭の苦界に身を置いていた者が多く、また初期には移籍の条件も良かったようだ。上記の菊丸さんは、2年で4千円の借金を返済したという。千田夏光従軍慰安婦・慶子』でも「長崎を出てから3,4カ月で18人とも前借金1000円分に加えて二百円、五百円稼いだ」と述べている。


高安やえさんは抱え主から声をかけられ、「今の10倍稼げるし、帰って商売を」と考えた経由を述べている。(『女のラバウル小唄』1979

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朝鮮人慰安婦のほとんどが、無賃金であったのに比較すれば、それなりの厚遇と言える。
『証言ー強制連行された朝鮮人慰安婦たち』に証言した19人の内3人だけが報酬をもらったと答えた


           遊郭自体が「奴隷制度」ではあったが・・・

慰安婦問題が戦後補償の問題となり始めたのは1990年頃だったが、日本人の元慰安婦はそれよりも20年以上も前から、大衆雑誌に登場し身売り話を披露していた。当時の身売りと言えば「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」廊清会の内相あての陳情書ー『慰安婦と戦場の性』P37であり、貧農の少女達が親に対しては「工場での仕事」「ちょっと御酌」などという名目で女衒に騙されて遊郭に売られた例が記録されている。


遊郭に売られた女性たちは返せないように仕組まれていた借金に苦しんでいた者が多かった。日本の公娼制度はそれ自体が奴隷制だったのである。

やがて戦場に赴くと、料亭で将校達の酒の相手として一晩に一人を相手にすればよかったのであれば、彼女たちにとっては比較すれば楽に思えたかも知れない。またそれを見ていた兵隊も特に悲惨な印象は受けなかっただろう。
いくつかの戦記に登場する兵士の眼から見た日本人慰安婦は確かに”水商売の女”という印象を受ける。
だから日本人慰安婦の場合は、日本軍とその慰安所制度に対して憎しみを持つ者は少ないのかも知れない。


         「お国のため」と言われていた

その頃の全ての日本人は小学生時代から国家主義教育を受けていたので、戦場に連れて行く際に「お国のために」という大義名分が加わり、(『現代』1972、4月「今も続く慰安婦戦友会の悲しみの秘録」嶋田美子)精神的な高揚があったものと思われる。田中たみさんは「お国のために・・苦労されて」と敬われた経験さえ語っている。(『皇軍慰安所の女達』川田文子)

当時の国家神道軍国主義を中心に全体主義国家となっていた大日本帝国の価値観の中では、「お国のために生き、死ぬ」事が最大の価値のように思われていた。
秦郁彦は、ビルマ戦線で数人の日本人慰安婦が「自決したらしい」と書いている(慰安婦と戦場の性』P123)。捕虜になる事を拒否すべしとした東条内閣の洗脳の結果、敗戦前に無駄な自決が多くあったが、これもその一つと言える。


         遊女を妻帯する日本の社会習慣

  日本では古代から遊女と結婚する社会習慣があった。売春行為自体が神社のお祭りでの「雑魚寝」「夜這い」の風習によって日本社会の中である程度の存在を認められていた・・・というお国柄だったからである。(売笑三千年史 』お祭りの日には宇治の【種もらい祭り】のように、乱交パーティーが開かれ、義経に愛された静御前の例を挙げるまでもなく白拍子(遊女)が権力者や金持ちに見染められた例も少なくない。それゆえに戦後結婚もせずひっそり暮らした者が多い朝鮮人慰安婦に比べて、日本人元慰安婦の場合、結婚して家庭を持った例も多かったようだ。
『共同研究 日本軍慰安婦(編=吉見義明、林博史P180梁澄子)によると調査した韓国人30人の内結婚した人はわずか10人しかいない。同棲経験は9人だが、残り11人は男性を受け入れられなくなりまったく一人で生きていたのである。30人の内、戦後子供を産めなかった女性は21人にのぼる。実に3分の2が子孫を残せなくなったのだ。
30人の内3人が慰安婦をしながら子宮摘出手術を受けており、あまりに大量に慰安を強要され子供が産めないような身体にされてしまった例も報告されている。

「若いころに子宮を酷使したため、子宮が曲がってしまっていると病院で言われた」

「妊娠した事に気づかずに606号注射を受けると、体がむくみ寒気に襲われ下血しました。すると病院に運ばれて医者が子宮の中をそうはします。3,4回そうはするともう妊娠できない体になりました」

『共同研究 日本軍慰安婦(編=吉見義明、林博史P180梁澄子)
湖北省慰安所では)生理のときも休めませんでした。妊娠した時は「紅花」という薬を飲まされました。その後お腹からどろどろの血が流れます。すると体から力が抜けて、顔が黄色く痩せます。そんな事があって私はこどもを産めない体になりました。

袁竹林の証言
BY 記録映画 『太陽がほしい』ー慰安婦と呼ばれた女性たちの人生の記録 班忠義監督

という具体的な証言もある。

台湾の元慰安婦も半分が子供を造れなかったという。(p178)

こうして各国の女性の人生を破壊した責任は、個々の業者よりも、慰安所を創建し全体を支配していた日本軍と政府により大きい。

慰安婦の補償問題が起こった後、名乗り出る日本人元慰安婦がいなかったのは、慰安所生活の中で他国の慰安婦達のように心身に深い傷を負った人が少なかったためだろうか。ゆえに戦火を生き残った人達は結婚し、すでに孫もいて平安な生活を壊されたくないのだろうという推測もある。


 

               兵隊のバイオレンス


日本以外の元慰安婦の場合そもそも強姦で慰安所生活が始まる事が多かった。彼女たちの多くが、無垢な状態から強姦されているので、それだけ苦痛も大きいだろう。
慰安を拒否したり、兵士のわがままな要求にこたえないと殴られ、身体障害を負わされた例も多くあった。例えば山西省訴訟の万愛花さんは、輪姦と拷問を受け、身体障害を負わされ、
フィリピンのアモニタ・バラハディアさんは監禁・強姦された際に抵抗して殴られ、左耳の聴覚を失った。
日本軍の下級兵士には連戦を続けてもいつまでも休暇ももらえず、家族にも会えず長く戦場にいて心が荒み、希望を失った者も多くいた。そのために様々な犯罪が引き起こされたのだが、慰安婦達もその犠牲になり、平常では考えられないような残虐な体験をしたのである。

こうした酷い体験の中で心身の障害を負った例は日本人元慰安婦には見られない。

もちろんこれは、証言が出てないだけかも知れないが、「一日に一人将校相手」の人が多かったとすれば、DV被害も少なかっただろう。


         心の暗がりー心的外傷(トラウマ)

しかし、一方で心の暗がりと痛みを訴えていた人がいたのも事実である。その内面の荒廃と苦痛は想像するしかないが、菊丸さんは後に自殺した。「かにた村の従軍慰安婦の碑」で有名な城田すず子さんは戦後覚醒剤中毒になり、戦場で犠牲になった同僚の慰安婦達の夢にうなされたという。だから慰安婦の碑を造ったのである。
朝鮮人慰安婦の場合も現実の苦痛を逃れるために阿片中毒になる例が報告されているがhttp://www.awf.or.jp/1/korea.html、河順女ハルモニは「・・・日本の女たちの中でアヘンを吸う人はたくさんいました・・・」と語っている。(『証言ー強制連行された朝鮮人慰安婦たち』P93)


         日本の素人女性を強制的に慰安婦にした例

第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代にこういう証言がある。
一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた
                         場所=中国中部山東省
本田勝一天皇の軍隊』P293)
秦郁彦慰安婦戦場の性』P382)
 

つまり慰問団としてやって来た普通の日本女性200人を強制的に慰安婦にしたという話である。また騙されて慰安婦にさせられた女性もいた事が分かる。残念ながら、どんな扱いをされたのか、その後どうなったのか?記録がないのだが、公娼制度とそれを支える女衒のシステムや日本軍慰安婦制度は人類共通の敵だという事がよく分かる出来事である。

私は日本軍が滅んで本当に良かったと思っている。
もし今でも大日本帝国とその軍隊が存続していたなら、いつ意味の無い戦争に駆り立てられるやも知れない。・・・徴兵され、これまた無意味なビンタを浴び、さらに自分の愛する母親や姉妹、妻や娘が無理やり慰安所に放り込まれ、多数の相手に強姦させられるとしたら、怒り狂うだろう。
しかし、そういう事がもし起っても、責任者は処罰されず、証拠はもみ消される。
かつて起ったそういう出来事が今後起らないと誰が保障できるだろうか?





【参考文献&サイト一覧】

『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』
『強制連行された朝鮮人の証言』 朝鮮人強制連行真相調査団編
『父と日本に捨てられて』 瀬戸正夫
『戦中派の遺言』 
『証言記録従軍慰安婦・看護婦』
『思川ー山谷に生きた女たち 貧困・性・暴力 もうひとつの戦後女性史』宮下忠子
玉の井挽歌』
従軍慰安婦・慶子』
『証言ー強制連行された朝鮮人慰安婦たち』
『女のラバウル小唄』
「廊清会の内相あての陳情書」
慰安婦と戦場の性』 秦郁彦
『現代』1972、4月「今も続く慰安婦戦友会の悲しみの秘録」
皇軍慰安所の女達』川田文子
売笑三千年史 』 中山太郎
『共同研究 日本軍慰安婦(編=吉見義明、林博史
天皇の軍隊』本田勝一

 『父と日本に捨てられて』 瀬戸正夫著 

バンコクには、ルムピニー公園やその他の地域に、バンコクを守備する部隊と、ビルマ戦線に赴く日本 の部隊が点在し、駐屯していた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スリブォン通りには、軍人専用の赤球や、白木屋、白雲荘などの看板があがり、この他にも、下っ端の兵士用の慰安所などが 軒並み店を出していた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
威張り散らした気の短い軍人が、言葉も通じないのに「タイ人がなんだ!生意気だっ!」と息巻き、タイ人と殴り合いの喧嘩をおっぱじ め、いざこざが絶えなかった。
或る夕方・・・・一人のすらっとした将校を乗せたサームローが、僕の眼の前で停まった。将校はそのまま料金も払わずにスタスタと歩きだした。 そのとたんに、サームロー引きのおっさんが「お金、お金、まだサームロー代払ってない。サームロー代をくれ!」と大きな声で怒鳴りだした。不満顔 でじろりと一瞥した将校は、「何をわめいているのだっ!うるさいっ!このやろう!」と、一括したかと思ったその刹那、 あっという間に日本刀を抜き、 ガチーンと車輪の音が跳ね返る鈍い音と同時に、サームローのタイヤをスパッと切ってしまった。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・
これは僕が目撃したほんの一件に過ぎないのだが、日本軍が駐屯していた、ソンクラー、ナコーンスィータマラート、チュンボ ーン、ラノーン、バーンボーン、カーンチャナプリー、トンプリーなど、その他の地方でもいろんな問題を引き起こしていた。
ともすれば、中国大陸と同様に勘違いしがちな日本軍部の規律はかなり乱れていた。威張りちらし、傲慢になりすぎた将兵が、「ここは俺達が 占領した領土だぞ!」と、人を小馬鹿にした顔で、「土人が何だ!土民の能無しが何だ!タイ人の馬鹿が何をつべこべぬかすか!」と言った調子 で、タイ人を馬鹿にした。大事なタイの風習、文化をも無視し、礼儀作法すら忘れ、平気で失礼な行為を示した。ひどいのは意味も訳も分からぬまま、手を 合わせて哀願するタイ人を捕まえて、ビシッとびんたをはつり、ゴツーンと頭を叩いたりした。それに罪もない嫌がるか 弱い女性を強引に強姦した事件などが続出した。この他にも、スパイ容疑で逮捕され、半殺しの目に合わされた者も大勢いた。しかし被害を受けたタイ人が 警察に駆け込み「助けてください」と訴え、救いを求めてもどうにもならなかった。
タイは、日本に占領された占領地でも植民地でもなかったはずである。ちゃんとしたタイ国の憲法や法律が維持された独立国である。だが何故か、武 力の威力に威厳を張った憲兵隊や、軍部の圧力に押さえられていた。日本からがんじがらめに縛り上げられたタイ当局としては、穏便に話しを進める以外、何 とも手の施しようがなかった。被害にあった可哀想な人々はただ泣き寝入りするしかなかった。悪事を働いても、裁判も何の刑も受けずにすむ将校の振る 舞いは、日増しに悪くなり、目に余るものがあった。

特にひどかったのは、1942年(昭和17)12月18日に起こったバーンボーン事件だった。事件の発端は、一人のタイの坊 主が、捕虜に煙草をあげようとして、日本兵に「煙草をやっちゃいけない」と注意されたが、言葉が通じなかったために、捕虜に煙草 をやったのがきっかけだった。兵士は「このやろう」と怒鳴り、ドントゥム寺の坊主のほっぺたに、バシッとビンタを食ら わせたのだった。(タイでは、人の頭を撫でたり、叩いたり、ほっぺたにビンタを食らわせたりすると、侮辱したと見なされる。 特に僧は国民から尊敬され、大事にされている。)日本の鉄道隊とタイの警官隊との銃撃戦になってしまった。・・・・・・・・・・

このバーンボーン事件がきっかけとなり、タイ人はついにカンカンになって怒りだした。「ここはタイ国なのだ!何故俺達タイ人を苛めるのだ!威張る なユン!タイ人を馬鹿にするな!」と自尊心を踏みにじられたタイ人の愛国心が瞬く間にタイ全土に広がった。・・・・各地で反日感情の火の手がメ ラメラと燃え上がった。道を歩いても白目でジロリと睨み、「アイ・ユン」と罵られ、身の危険を感じるようになった。
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(  p115、116より)