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右傾化(詭弁国家化)はどんな風に始まったか?



西川長夫立命館大学教授によると1988年に、突如「愛国主義」が学生たちの情念に顕れたという。

こういう話だ。

西川教授は自分の講座で年に一度「あなたはどこの国が好きですか?」とアンケートをするのだと言う。

すると88年、突然、「日本」と答える学生が出て来た。
それも「圧倒的な一位」だという。
その理由は「日本人だから」とか「母国を愛するのは当然」というものだ。

             (『国境の越え方』 西川長夫 人文書院




西川教授は「自民党の愛国教育は完全な成功をおさめていると私は思う。」と述べている。
しかし私はそれは違うと思う。
その頃、大した愛国教育があった訳ではないのだ。
それは”教育の結実”ではない。

「遺伝」というべきだろうか?
ともかく「血」の中に眠っていた「日本的なるもの」が、この頃から覚醒し始めたのだ。

ゆえに私はそれを「日本民族神道カルト情念」と名づけた。



         

翻って、時代を傍観してみよう。


1945年の敗戦によって、日本人の神道的な民族主義的情念は封じられる事になった。それまで「鬼畜米英」とか「神風が吹く」とか「国体明徴」とか・・・「我が国は神国なるぞ」と大声で叫んでいた狂ったような連中が、敗戦とともにある者は自決し、ある者は戦争継続を唱えて山に籠った末に取り押さえられ、ある者は健忘症にかかったように急に「民主主義バンザイ」を叫び始め・・・・こうして日本を狂わせていた情念は取り押さえられたのである。キリスト教徒たち・・・GHQの半分以上はそうだったし、マッカーサーは日本の教化を考える敬虔なキリスト教徒であった・・・・は、”前出の”日本的なるもの神道主義)”に対して神道指令を発し、念いりに封をしたが、日本のキリスト教化自体は失敗した。ゆえにそれはいつか封を破って出て来るはずだったのだ。

岸内閣の度重なる改憲の主張や右翼団体による改憲論をしり目に日本は経済的な復興を成し遂げて行った。やがて2度の安保闘争が失敗に終わり、ハイジャックや大使館ジャックなどの犯罪行為や陰惨な内部殺人が報道された浅間山荘事件などで共産主義への信任が失われると、1975年、三木が戦後初めて首相として靖国を参拝し、直後「靖国神社法案」が提出された。「英霊にこたえる会」「日本遺族会」は署名運動を始め最終的に2000万筆を集め、田中角栄は橋本富三郎に「絶対成立させる」と大見えを切ったという。その角栄ロッキード事件で葬られて事無きを得たのだが、この頃、「靖国国家護持法案」の反対運動をしていたのはキリスト教新宗連の青年活動家達だった。国家神道の中でさんざん迫害された記憶を持つ彼らは宗派の違いを越えて反対署名を行ったのである。

75年「私人として」三木首相から始まった靖国参拝は、福田、鈴木、82年の中曽根へ続く。福田の時、A級戦犯の合祀が表面化し天皇は参拝を取りやめたがにもかかわらず次の鈴木は集団参拝を行い、この時いまだに悪名高いみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会が造られた。200名近い示威行為は、国交回復したばかりの中国や韓国の首脳の脳天を直撃した。84年、中曽根の公式参拝宣言に中国外務省が非難声明を出す。

8月15日、中曽根首相の靖国公式参拝。中国、韓国などから非難の声があがる。ここで藤波長官が今日まで使われている詭弁の説明をした。

国務大臣としての資格で、戦没者に対する追悼を目的として、靖国神社の本殿又は社頭において一礼する方式で参拝することは、憲法20条3項の規定に違反する疑いはない」
というのだ。

相当国民をなめた説明である。もっとも世の中のほとんどの人は誰が靖国参拝して誰が反対しようがあまり関心がなかったらしい。これに対して日本国内では大きな動きは起きなかったが、北京や西安靖国参拝抗議の反日デモが起こり、中国外務省の公式非難声明に、中曽根はあわてる。

自民党は、靖国神社に対して批判を浴びたA級戦犯合祀取りやめを要請するが、靖国側は拒否している。

さて、この時期、プレッシャーを受けた自民党右翼議員の中から、妄言が続出するようになる。この妄言=歴史修正論は、戦後多くの自民党議員がもともと持っていた歴史観であり、1953年の第三次日韓会談の久保田貫一郎発言の際にも自民党議員は賛同する者が多くいた。久保田は「公的資格で述べたものだ」と宣言しながら「日本としても朝鮮の鉄道や港を造った」と述べさらに日本が韓国を統合することによって韓 国に恩恵を与えたと答えた。韓国側は「発言の撤 回」を要求するが、久保田はそれを拒否し、会談は決裂した。それから高杉晋一妄言があったぐらいで冷戦下では歴史妄言も沈静化していた。
彼らの歴史観は基本的には戦前のそれを踏襲しており、「神話や戦前も含め、日本は素晴らしい国」という意見であらわされることになるだろう。
しかし靖国問題が表面化した後、沈黙は破られる。86年、藤尾正行文相 は「われわれがやったとされる南京事件と広島と長崎の原爆と、一体どっちが規模が 大きくて、どっちが意図的で、かつより確かな事実としてあるのか。」「日韓の合邦とい うものは、当時の日本を代表していた伊藤博文と、韓国を代表していた(李朝の)高 宗との談判、合意に基づいて行われている。(中略)韓国側にもやはり幾らかの責任 なり、考えるべき点はあると思うんです。(「文芸春秋」誌1986年10月号)」と書いた。そこで韓国が抗議し、中曽根首相が罷免したという事件が起こったのである。

自民党の右派議員達は、82年の「侵略」→「進出」書き変え事件以来の教科書の「近隣諸国条項」と靖国参拝への圧力に相当ストレスをため込むようになり、やがてこうした妄言が続発するようになる。88年には奥野誠亮国土庁長官「白色人種がアジアを植民地にしていた。それが日本だけが悪いことにされた。だれ が侵略国家か。白色人種だ。何が・・侵略国家か、軍国主義か。」 と発言して辞 任した。

この頃、つまり1985年頃、民族主義神道カルトの情念が動き始め、日本の右傾化が始まったのである。



冷戦が終わるといよいよ本格的な妄言時代となった。
自民党の「歴史検討委員会」などで触発された右派議員は、みんなで靖国を参拝すれば怖くないとばかりに、みんなで「慰安婦はただの売春婦」「南京虐殺はなかった」と妄言しはじめた。

94年羽田内閣で永野法相が「日本で言う大東 亜戦争というものが、侵略を目的にやったか。日本がつぶされそうだったから生きる ために立ち上がったのであり、かつ植民地を解放する、大東亜共栄圏を確立するとい うことを、まじめに考えた。私は南京事件というのは、あれ、でっち上げだと思う」 「慰安婦は当事の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない」と発言。更迭。

94年桜井環境庁官が「日本も侵略戦争をしようと思って 戦ったのではなかったと思っている。(中略)アジアはそのおかげでヨーロッパ支配の植民地支配の中からほとんどの国 が独立した。」と発言。更迭。

94年、橋本龍太郎通産相衆院税制改革特別委で「・・・侵略戦争と言い得たかどうかとなれば、私には疑問は残る。(中略 )当時の日本として、その地域のかたがたを相手として戦っているつもりはないまま に、太平洋の各地域を戦場とした事実がある。」と発言、問題化。

95年、島村文相が「侵略戦争じゃないかというのは、考え方の問題」と発言、その後撤回 。

95年、江藤総務庁長官が「植民地時代には、日本は韓国によいこともした 」などと発言、辞任。

こうして靖国参拝を非難され、歴史盲説を批判され、追い詰められた自民党議員が最後のあがきを見せているのが今日なのである。

だが、どんなにあがいてもアメリカも欧州もアジア諸国遊就館的な歴史観を容認する事はあり得ない。それは今回の安倍靖国参拝に対する各国の反応でも分かったはずである。

いくら金をばらまいてきても、本当の事を嘘にする事などできやしないのだ。また嘘を本当にする事も不可能である。
靖国神社は、単なるお墓ではなく宗教施設であり、その施設は戦争を賛美し、兵隊を鼓舞するために造られた。それを参拝する事は、先の戦争を賛美するに等しい。

自分達の歴史観の方が間違っているのだとそろそろ気付くべきである。
それとも、彼らは再び世界を遮断して”鎖国”をするつもりだろうか?