河野談話を守る会のブログ2

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公娼は我が国体に立脚して、神の御威光の下に定められたる制度である



満州事変前後、東北農村の不況が生んだ身売り娘が大きな
社会問題となったとき、世論の圧力におされて、内務官僚が
公娼廃止の断行を目論んだことがあった。おどろいた親方たち
は全国貸座敷業者1万1千人に激を飛ばして、35年(昭和10
年)2月東京で大会を開き、「我らの死活問題たるに留まらず、
実に国家隆替の分かれるところなり」と決議した。

大会は、町会議員的な政府攻撃の演説でにぎわったが、「そも
そも教育勅語にも『国法に従い』とのたまわせられているにも関
わらず、内務省のかようなる国法無視の挙に出ようとするが如
きは、はなはだ言語道断ではないか。公娼は我が国体に立脚
して、神の御威光の下に定められたる制度である。ゆえに我々
は我々の主義を世界に知らしめ・・・」と息巻に至っては、まっ
たく手のつけようがなかった。彼ら明治神宮に参拝して「業
界の安定」を祈り、宮城を遥拝して、天皇陛下の万歳を三唱し
た。この事実は、ひとしく人間的自由の抑圧を美化していた点
で、絶対的な天皇制とドレイ的な公娼制度の隠れた結びつき
を思わせるものがある。勅語とか国体とかを持ち出せば、ど
んな無理でも通る世の中であった。
西洋かぶれした廃娼論の世論をたたきつぶすために、吉原
の親方連(吉原は288軒、娼妓は3000人いた)は全力を
げて議会に働きかけた。買収されたかどうか知らぬが、女郎
屋のふるまい酒によって、堂々たる公娼賛成論を演説した代議
士の名をかきとめておくことは、健忘症の日本人にたいして無
用のわざではあるまい。
・・・・前田房之助(民政党)、船田中(政友会)、板野友造(政
友会)田中武雄(民主党)、大野伴睦(民自党)
一松定吉民主党)・・・・
これらのボス政治家が、日本の議会を腐敗させたばかりで
なく、・・・・軍閥に身をまかせて日本を亡国にみちびいた罪
は、いくらせめても責め足りない。公娼制度に対する賛否は
、まさしく国家隆替の分かれるところ」であった。
・・・・結局のところ業者の裏工作が成功して・・・妥協してし
まった。・・・実にヨシワラのおどろくべき政治力であった。
(P26,27)

『売春』神崎清 現代史出版会より)





昭和初年ころと思われる吉原の記録によれば、娼妓のかせぎ高の玉割は、9対1の比率であった。泊まり5円の料金のうち、かんじんのオイランは50銭しかもらえなかった。おそるべき搾取であり略奪である。オイランが着物を新調したり、する時にはベラボウな金利で楼主に借りなければならなかった様子も、この本には書いてあるのだが、それが「我が国体に立脚して、神の御威光の下に定められたる制度である」というのだから、我が国体なるものが、どんな種類のものかも想像がつこうと言うものだ。結局は、忘八といわれた遊郭業者もその人でなしの「商売の繁盛」を祈ることができるのがその国体に立脚した神社というわけだ。