河野談話を守る会のブログ2

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遊郭の歴史と慰安婦・・・その悲惨な歴史

       
          1、古代の売春は神社から始まった



平安末期に編纂された今様の歌を集めた梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には、「東には女はなきか男巫(おとこみこ)、さればや神も男には憑く」とあるが、

これは原始神道においては神につかえる者は女性に限られた思想を詠じたものである。
郷土研究第一巻連載柳田国男「巫女考」)(『売笑3千年史』P25)

柳田国男中山太郎は解説している。

さらに、この巫女について中山太郎は「すなわち神々が処女を愛でられたことを啓示している」と書いている(前出書P27)。古来より神々と交信するシャーマンに女性が見られるのは卑弥呼だけではない。そしてこうした巫女が日本における遊女、遊郭の起源であり、遊女を具して降臨した播磨の鎮守賀茂神に限るわけではなく、「摂津の住吉大社に近い泉州堺に近い乳守でも、この地こそ神功皇后の勅許以来日本最初の遊郭であって、同じく住吉系の祭典に遊女が一度ならず2度までも参加するのも、これに原因するのであると主張している。」という(前出書P22)。この住吉大社では、「卯の葉の神事」として大阪新町の遊女が八乙女として参加、また田植祭では乳守の遊女が早乙女として参加している。(『東成郡神社誌』)(前出書P103)
播磨の鎮守賀茂神の祭では室津の遊女が袴と紫の烏帽子で参加し、2人づつ歌を歌いながら街中を練り歩いている(『明治神社志料巻上』)。これは島原や吉原の花魁道中によく似ており、花魁道中に起源かも知れない。

古代の神社の祭礼には遊女がつきものであった。遊女が主役の祭りとしては白拍子や加賀女等の遊女が舞いを奏した祇園八坂神社の「神輿迎え」、播磨の賀茂祭や沖縄の尾類馬(ずり)、遊女供養の下関の赤間宮の先帝祭(『鳴門志料』)。長崎の諏訪神社大祭では丸山、寄合両町の遊女が毎年交代で参加する(『官国幣社特神事調一』)。明治国家が官幣社とした有名神社の多くがこれに含まれている。

ゆえに各地方の遊郭は神社を中心に発達した。伊勢の古市に遊郭が整備されたのは決して近年の話ではなく、「大昔から全国に渡り『夫婦連れての伊勢参宮したのでは御利益がない』という諺が行われている裏面には、道者は必ず古市で遊ばなければならぬように仕向けられていたのである。」(前出書P99)という。古謡に「伊勢の古市女郎衆の名所、戻らしやんせよ迷はずに」川柳に「伊勢まいり太神宮へも寄ってくる」とあるように、買春旅行としての「お蔭参り」を伝えているのである。

男山八幡宮枚方、橋本、春日社と奈良の木辻、摂津住吉社と乳守、広田社と神埼、下関赤間宮と稲荷町筑前宮崎宮と博多柳町、金毘羅社と新町、日吉神社と大津柴屋町、熱田神社と宮ノ宿、伊豆三島神社と三島女郎衆、国魂神社と府中の遊女町、信州諏訪社と高島遊郭安芸の宮島と遊里、筑波神社の遊里・・・・・など神社の門前町遊郭が発達した例は枚挙のいとまがない。
記録がさほど残らない奈良時代の昔から阿曽比女、宇加礼女、傀儡(くぐつ)などの遊女が『万葉集』に見られ、橘守部は「古へ国々に遊行女婦という 阿曽比女いと多かりけん。・・・多くは前の采女なりけらし。」と書いている(前出P116~117)。万葉の時代から石川女郎、児島、佐用姫などの遊行婦が筑前博多にいたことは、江戸時代ケンペルが伝えた長崎出島の遊郭の繁栄ぶりから考えても興味深い。
人身供犠としての神采女は各地の神社に一夜女郎(一夜官女、一夜妻)の風習をつくり、「摂津国西成郡歌島村大字野里の氏神の祭りでは毎年宮座24件の家から6人の少女を選び出し、これを一夜官女と名付け夏越桶と称する飯櫃様のものを供の者に持たせ、夜中に参拝するを古式とした」(摂津国名所図絵』)(前出P120)。

田畑の売買は貨幣に限るとか位を銭で買わせる法令を発令して、やっと天武朝以来の貨幣経済が発達したおかげで売買が可能となり国内での旅行は楽になった。それに連れて、駅路に居を定めて旅人を顧客とした娼婦が増えた。奈良時代から平安時代にかけて遊女の跳梁が始まり、我が国の隠微な習俗を発達させて行った。性道徳が置き去りにされた平安朝では、性愛至上主義の『源氏物語』のごとく、12人の娘を泳いだ在原業平や道貞に嫁した後、10才も年下の為尊親王の他数々の浮き名を流した和泉式部のように貴族たちの享楽主義も進んだ。一方で中国式律令と仏、儒教の性の規範が次第に広まって行く。類聚三代格(国史大系本)巻1、神主禰宜事の条に 延暦一七年一〇月十一日の官布が掲載されている。

出雲国造託神事多娶百姓女子為妾事
右被右大臣(神主)宣○奉 勅今聞承前国造兼帯神主、新任之日則棄嫡妻、乃多娶百姓女子号神官采女、便娶為妾莫知極限、此是妄託神事逐扇淫風、神道益世豈然乎、自今以後不得更然、若娶妾供神事不得己者、宣令国司注名密封ト定一女不得多点、如違此制随事科処、筑前宗像神主准此

つまり、 出雲国造に対して神事にかこつけて百姓の娘たちをみだりに妾にするな、と命じたのである。

鎌倉時代が終わると売春を公に認める公娼制度が始まった。

「足利2代将軍の時、(1359)菊池武光の乱を討伐せよという命令を受けた九州探題左京太夫氏経は、各軍船に傾城(遊女の事)10人20人を同乗させて出発したが、九州に到着するや否や、一たまりもなく敗北した」(『吉原・島原』小野武雄)
室町幕府(12代の時)は、「傾城局」という役所を新設し営業に鑑札を与えて税金を取った。
売春業を公に認めたのである。

     
         2、 奴隷売買と女衒の暗躍、遊郭の繁栄

 
戦乱が続く時代「天文・永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場ありて、妙齢の子女を購い来たりて、之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」(『日本奴隷史』)という。
 
秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭を造った。1585年に大阪三郷遊郭を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。ここには秀吉も遊びに行った。
 「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊郭)をはじめたのである」(『大君の都』オールコック

色を好んだ秀吉は遊郭に寛大だったので、遊郭は増えて行った。
 
「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」(『日本売春史』中村三郎)というくらいだから、花街のにぎわいはこの時代から生まれたのである。
 
徳川は、お家の”安泰”のため、京都の公家と外様大名と浪人を警戒し、反乱を恐れて遊惰へ導き、公娼遊郭制度を保護発展せしめた。家康は『吾妻鏡』に関心を示し、秀吉の遊郭政策に見習い、徳川安泰を謀り、柳町遊女屋庄司甚右衛門に吉原遊郭設置許可を与えた。庄司甚右衛門は「(大遊郭をつくって)お大阪残党の吟味と逮捕」を具申したのである。甚右衛門はこう述べた。1、大阪残党の詮議と発見には京の島原のような規模が適切である。2、江戸に集まる人々の性犯罪の防止のため3、参勤交代の武家の性処理4、江戸の繁栄に役立つ。
幕府が三都の遊郭(吉原、京の島原、大阪新地)を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者を身内扱いしたのはこのような理由があったのである。

身内扱いの事例として、すでに述べた税金免除の他、将軍代替わりの祝儀、料理人の派遣、摘発した私娼の引渡しがなされ、江戸では1666年に私娼大検挙がなされ、湯女512人が吉原に引き渡された(『売笑三千年史』中山太郎)。

又あまりに非人間的な扱いに耐えかね訴えで出た遊女を奉行所は廊の楼主に引渡し、どんな処置をしてもよいと言い渡している。こうして遊女の悲劇が始まった。
 さらに百姓の反抗を恐れて「死なぬ様に生ぬ様に」と年貢を重くしたので結果不作が2年も続けば、農民は飢餓に泣かされ、姥捨て山の悲劇や妻娘を遊郭に売るようになった。遊郭は婦女子を二束三文で買い取ることで発展したのである。
すでに日本人は忘れているが、明治の始めまで天秤に子供を乗せて「子は要らんかね」という人売りの姿があった。



全国に女郎屋が栄えると遊女の消耗も激しくなった。こうして女衒(ぜげん)と呼ばれる婦女売買、誘拐業者が生まれたのである。農村の娘を安く買いとって遊郭や宿屋女郎に売り飛ばす「口入稼業」である。
 幕府の推奨した色骨抜き作業に引っかかり、好色のために衰弱死した大名は、浅野幸長加藤清正池田輝政大久保長安などがおり、浅野幸長結城秀康黒田如水などは梅毒に感染していたようだ。こうして2百数十年間に渡って日本各地に遊郭が栄え、江戸文化の一つとなったが、やがて、性病が蔓延し、幕末には約三割が梅毒感染者であったとも言う。家康自身が70を過ぎて淋病にかかり、他におおくの感染者がいた。(徳川家康北島正元)
 
明治時代になって、遊郭はさらなる発展を遂げるようになった。横浜では外人目当ての遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに築地鉄砲州遊郭の設置を許可したからである。
 
 
(つづく)