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南京大虐殺ってすぐに報道されてましたがね、こんな奴早よ辞めさせろ!


NHK経営委員で「永遠の0(ゼロ)」などの作者として知られる作家の百田尚樹が、東京都知事選に立候補している田母神俊雄氏の応援演説に立ち、以下のように発言した。
「1938年に蒋介石が日本が南京大虐殺をしたとやたら宣伝したが、世界の国は無視した。なぜか。そんなことはなかったからです」「極東軍事裁判で亡霊のごとく南京大虐殺が出て来たのはアメリカ軍が自分たちの罪を相殺するため」

朝日新聞デジタルNHK経営委員の百田氏が応援演説 都知事選」より 2014/02/04 05:56)

聞いた瞬間、うわっと思った。

あきれた。というより気が重い。

また思い込みだけで、なんとかしようとする妄想歴史の語り屋が現れたわけだ。

1937年の南京事件は、その直後に中国や欧米で、日本軍の引き起こした虐殺と強姦、強盗などがかなり詳細に報道されているのだが!

この無知なおじさんは何を言ってるんだ?

少し解説しておこう。

やれやれ、バカの相手は疲れる。

欧米では南京の暴虐が大々的に報道されていた

特に南京に滞在していた記者がリアルタイムで発信したニューヨーク・タイムズ「シカゴ・デイリー・ニューズ」の一連の記事は、完全に正確とはいかなくとも、当時の南京の状況を知るうえで非常に有益な資料となっている。
それら以外にもワシントンポスト」1/12、「マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー」2/11、「デイリー・メール」12/15、「タイム」(アメリカの週刊誌)2/14、「ライフ」1/10などでも南京の暴行事件は取り上げられている。

南京に関係する記事のうち、翻訳され『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』に収録されているだけでも170ページに及ぶ。すべてが南京事件に関わるものではないが、それだけ多くの報道が当時からなされていたのである。
日本軍の数々の蛮行も報道され、「南京アトロシティーズ」として大きな非難を浴びる結果となった。東京裁判になっていきなり湧いてきたものではない。


 



もちろん、各大使館にも記録されている。



南京アメリカ大使館 エスピー副領事の報告(1938年1月15日-24日作成)

日本軍の入城以後、したい放題が兵士に許されていたのかどうか、それとも軍の統制が完全に瓦解していたのか、十分な説明はなされていない。しかし、われわれの聞いたところによると、日本軍指揮官より、兵士を統制下におくよう少なくとも二回の命令が出され、また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう、厳命が出されていた。
それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である。外国人目撃者の話によると、南京を冒涜する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞っていた。市内では数えきれないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている。

(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p241-242)
南京ドイツ大使館分館 書記官ローゼンの報告(1938年2月10日付)

内容――南京における日本軍の残虐行為に関する記録フィルム
南京における日本軍の恐怖支配――それは、かなりの程度でいまだに続いているが――の間、およそ四半世紀にわたり当地に在住する米国監督派教会伝道団員のジョン・マギー牧師が映画撮影をおこなったが、その記録は日本軍のおこなった残虐行為を雄弁にものがたる証拠となっている。
[略]
それぞれの映像の背景となった出来事に関する英文の解説が添付されている。フィルムと同様、この解説も衝撃的な歴史資料であり、〔ヒトラー〕総統閣下には、このフィルムを解説の正確な訳文とともに御覧いただきたいと所望する。
さて私は、先の日曜日に日本軍が引き起こした「英雄的行為」の現場とその四人の犠牲者をこの目で見た。そこでは二脚の椅子を運んでいた老人が、日本兵にいとも簡単に銃で撃たれた。この老人の姉は、日本兵が接近したので近くに隠れていたが、知りあいの二人を呼んで、竹竿と縄で戸を担架に作り変え、重傷の老人を運び去ろうとした。すると日本兵は、重傷の老人と姉、老人を運ぼうとした二名、合わせて四名全員を射殺したのだ。[略]
同じ日曜日ラーべ氏は、紅卍字会が、池から一二〇以上の死体を運び出す様子を目撃した。これらの人々は、まず機関銃で殺され、その後で焼かれた。焼却に手問取ると、死体は水中に投げ込まれたのである。英雄気取りの島国民族に殺された犠牲者の死体は針金で後ろ手に縛られていた。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』p164)
南京ドイツ大使館分館 事務長シャルフェンベルクの報告(1938年2月1日付)

南京入城のさいの日本軍の所業については、語らぬに越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずにはいられないほどの徹底した破壊ぶりであった。ある陸軍参謀の中佐の話では、上海から南京へ向かっていた食糧輸送部隊はついに本隊のもとに戻らなかったそうである。この一件からも、日本軍がここではまるであのベルゼルカーのごとく何もかも貧り尽くしたことがわかるであろう。空き家はただちに焼き払われた。日本兵は、一九一八年当時の黒人兵同様、こう言い含められていたに違いない「ここで頑張った奴はみな、南京で美しい娘をモノにできるぞ。」こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい目にあわされた。[略]
日本軍は統制が失われたと言えば簡単だが、私はそうは思わない。アジア人の戦争の進め方は、われわれとは異なるのだ。日本と中国の立場が逆でも、事態に大差はなかっただろう。とくに扇動の仕方は同じである。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』p85)

エスピー報告(全文)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.ht...



日本軍の軍人たちもこう書いている。

南京虐殺の頃、陸軍省兵務局防諜班長であった宇都宮直賢(なおかた)少佐は、回想録黄河揚子江・珠江ー中国勤務の思いで』の中で
南京の暴行残虐事件についても私は帰京後聞いた。(略)私は参謀本部の本間(雅晴)第2部長、渡(左近)支那課長、米(アメリカ)班の西(義章)班長以下に会ってこれらの事件の対策についての諮問に及ばずながらも応えいろいろ進言した。
班長大本営参謀の西中佐(31期、陸大同期)が実地調査のために直ちに南京に急行することとなり、広田大佐と共同して事件の究明と解決に努力した。次いで杉山陸相の要請で、本間第2部長も急遽南京に向かい事情調査を実施することになった。
南京の暴行虐殺事件のニュースについては、日本側はこれを発表することを禁止したが、全世界に知れ渡って轟々たる非難の的となったことはまことに遺憾千万だった。(略)ずっと後で広田大佐と軍渉外部長を交代した際、談たまたま南京虐殺事件に及んだ時、大佐は「中国側の宣伝による中国人の殺害された数はまったく天文学的であり、過高断面の表現もよいところだが、私が南京駐在の日本領事たちと現地ではっきりと見聞したところでも多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、殺害されたことは遺憾ながら事実であり、実に眼をおおいたくなる光景だった」と語った。

南京事件論争史』笠原十九司p27)


と書いている。


何が「・・・蒋介石が日本が南京大虐殺をしたとやたら宣伝したが、世界の国は無視した。なぜか。そんなことはなかったからです」だ?

アホか?!

こんな無知な人間を「NHK経営委員」なんかにして、偏った報道をするのが分かり切ってるし、韓国、中国やアメリカとの関係がさらに悪化するだけだ。

バカが人の上に立ってるのが、日本の不幸だな。




以下「赤旗」から
2014年3月6日(木)

これが歴史の真実 成り立たない「靖国」派の言い分

南京大虐殺は「なかった」 百田発言は世界の非常識

 

 「1938年に蒋介石が日本が南京大虐殺をしたとやたら宣伝したが、世界の国は無視した。そんなことはなかったからです」。NHK経営委員の百田尚樹氏は東京都知事選の応援演説で言いました。一部マスメディアもこの発言を肯定する論説を掲載しました。本当はどうだったのか。

世界のメディアが当時も残虐性批判

 南京大虐殺(南京事件)は、1937年12月、中国への侵略戦争の中で旧日本軍が当時の中国の首都・南京を攻略・占領し、中国軍兵士だけでなく、捕虜や一般市民を虐殺した事件です。女性の強(ごう)姦(かん)、略奪をはじめ数々の残虐行為が行われました。
 虐殺のとき、南京にいたジャーナリストは、それぞれが惨状を記事にしています。
 ニューヨーク・タイムズのF・T・ダーディン記者は「大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた」(37年12月17日電)、「塹壕(ざんごう)で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された」(同年12月22日電)と報じています。
 シカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者は「(われわれが)目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた」「この門(下関門)を通ったとき、五フィート(約一・五メートル―訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた」(37年12月15日電)、「私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た」(同年12月14日電)と報じます。
 イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンの中国特派員H・J・ティンパーリーは報道した内容をもとに『戦争とはなにか―中国における日本軍の暴虐』をまとめ、38年にロンドンとニューヨークで発行しています。
 事件当初から、「世界は無視をした」どころか、日本軍の残虐性を批判していました。
 米国などの南京駐在外交官も本国に事件の詳細を報告しており、それが東京裁判南京事件を裁いた際の裏づけとされました。
 (『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店)
 日本では報道統制がしかれたため、国民には事件は伝わりませんでした。しかし、一部高級官僚や軍部は南京の惨劇を知っていました。
 南京事件当時、外務省の東亜局長だった石射猪太郎は日記に「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪(りゃくだつ)、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」(38年1月6日)(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社)と書いています。

旧陸軍将校親睦の機関誌も「詫びる」

 現場にいた日本の兵士も証言や日記を残しています。なかでも旧陸軍将校の親睦団体・偕行社(かいこうしゃ)の機関誌『偕行』に1984年4月~85年3月に掲載された「証言による『南京戦史』」は注目されます。
 「大虐殺の虚像」を明らかにする狙いで偕行社が募集したものでしたが、寄せられた証言は虐殺の実態を生々しく伝えます。
 松川晴策元上等兵は「(中国の)便衣兵が一列にならばされ、(日本の)兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、あるいは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかった」「土のうと死体が一緒くたになって、約一メートルぐらいの高さに積み重ねられ、その上を車が通るという場面を見ました」と証言しています。
 佐々木元勝元上海派遣軍司令部郵便長は日記に「道路近くでは石油をかけられたのであろう。(死体が)黒焦げになり燻(くすぶ)っている。波打際には血を流し、屍体(したい)が累々と横たわっている」(37年12月17日)と書き残しています。
 最終回の85年3月号で、編集部の加登川幸太郎氏は「(死者の)膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない…この大量の不法処理には弁解の言葉はない」と虐殺の事実を認め、「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫(わ)びるしかない」と謝罪しています。

日中政府の歴史共同研究でも

 「日本の近代史の研究者の中で、南京で相当数の不法な殺人・暴行があったということを認めない人はほとんどいない」(『外交フォーラム』2010年4月号)。2006年に第1次安倍政権が着手した「日中歴史共同研究」で安倍首相の指名で日本側座長となった北岡伸一国際大学学長は、共同研究の成果と課題をまとめた論文で述べています。
 北岡氏は日本の侵略を認めたうえで「不快な事実を直視する知的勇気こそが、日本の誇りなのであって、過去の非行を認めないのは、恥ずかしいこと」とも言っています。
 (若林明)