右翼論壇に蔓延する「挺身隊」という言葉に対する無知から生じる誤解・・・その1
「挺身隊」という言葉に対する無知
「挺身隊」という言葉に対する無知から生じる誤解が右翼論壇には蔓延している。
それで豊田有恒氏にとって何が100パーセント捏造なのかというと
1990年代の初め韓国のさる新聞が、挺身隊なるものに関して報道した。これは、第二次世界大戦の時代のことで、勤労挺身隊という制度があったことを意味している。これ自体は正しい。私の9歳年上の姉も、当時の女学生だったが、近所の中島飛行機の工場に通い、働いていた。第二次大戦末期である。・・・・・(中略)・・・ところが、この勤労挺身隊、略して挺身隊が韓国の若い新聞記者の誤解から、とんでもない騒動を引き起こすことになった。・・・・・・(中略)・・・・・・・実際、挺身隊は内地では早くから行われていたが、朝鮮では1944年になってからだった。・・・・・朝鮮に関しては、勤労挺身隊に徴用することに多少の遠慮があったのだろう。そのため、内地より遅れて始まったのである。
だが、そうした史実も知らずに、韓国では挺身隊が一人歩きをしてしまった。現在も「挺対協(チョンテヒョブ)」と言う団体が活躍しているそうである。挺身隊問題対策協議会の略だという。伊貞玉(ユンチョンオク)という人が、初代の責任者で、ソウルの日本大使館には数百回もデモを敢行したそうである。いまだに誤解が続いているのだ。
と言う事だが、ここで豊田有恒氏の勘違いの一つは、「挺身隊」=「勤労挺身隊」という勘違いである。
戦前の右傾化した日本社会では、「挺身隊」という言葉はポピュラーであり、大正時代にはすでに使われていた。これはもちろん、1944年から始まった「女子勤労挺身隊」の事ではない。少し書きだしておこう。
戦前、日本社会においての「挺身隊」という言葉
戦前、日本社会においては、「挺身隊」という言葉はポピュラーであった。
*(1)【 レファレンスコード 】A04010508400 1933年には右翼団体救国埼玉挺身隊事件が記録されている。
*(11)【 レファレンスコード 】A03024658100 部報 第78号重慶UP新聞電報放送(十三日)には「支那軍はなほ宜昌東北方の漢口―宜昌公路を通ずる主戦線を防衛している。しかしこの一万五千の挺身隊は六月八日に沙市を出発し・・・・」と書かれている。
以上から分かるように「挺身隊」という言葉は、戦前日本では非常にポピュラーな言葉だったのである。かならずしも、「女子勤労挺身隊」の事だけを指しているのではない。これは例えば、紅白歌合戦の「赤組」と日比谷中学の運動会の「赤組」が同じ言葉であっても、違う存在であるようなものだ。
ここでいう「挺身隊」は、「女子挺身隊勤労令」が施行される以前から使われていた言葉である。
豊田氏は「実際、挺身隊は内地では早くから行われていたが、朝鮮では1944年になってからだった。」と書いているが、秦郁彦氏さえ書いているように「女子挺身隊勤労令」によらない女子への動員がなされており(『慰安婦と戦場の性』P368)、43年に沼津工場 に行った裵甲先さんの証言もあるhttp://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/touasa.html。
この豊田氏の勘違いは大師堂経慰氏の『慰安婦強制連行は無かった 河野談話の放置は許されない』のP27や秦郁彦氏の『慰安婦と戦場の性』のP187,P366~P367に共有されており、どちらも「韓国(や朝日新聞)が、慰安婦と挺身隊を混同させている」というような意見を書いているが、それ以前に「挺身隊」という言葉を無条件に「女子勤労挺身隊」の事だと思い、これを混同させてしまったのは自分達なのである。この点については、後で詳しく論じてみよう。
日本国内で「挺身」という言葉が頻繁に使われるようになると、朝鮮半島にも伝播し使われるようになった。
そこで、軍の依頼を受けた遊郭業者や周旋業者(女衒)たちが、さらに下請けの朝鮮の女衒を雇い入れると彼らは、純情な農村の娘達を騙くらかすために「お国のために役に立つ」とか「○○挺身隊の仕事」「○○奉仕隊の仕事」「○○報国隊の仕事」「兵隊の被服の仕事」「兵隊の食事の世話」とか言い募ったのである。
その具体例をいくつか書いておこう。
こんな風にして騙した
■憲兵だった土金冨之助は『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』(創芸社,1977年)の中で次のように述べている。
(土金冨之助はスマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった)
(慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」
彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……
将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。
■憲兵だった土金冨之助は『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』(創芸社,1977年)の中で次のように述べている。
(土金冨之助はスマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった)
(慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。
この資料の重要な点は、この回想記が出版されたのが、1977年であるという事である。
「慰安婦110番」でも
ところでついでに書いておきたいが 豊田有恒氏が書いている「勘違いした若い新聞記者」は1992年の話であり、豊田氏は「慰安婦と挺身隊の混同の、これが発端」みたいに書いているが、すでにその時には「挺身隊問題対策協議会」が存在しており、発端でも何でもない。紛らわしい書き方はやめて欲しいものである。
挺身隊という誘い文句でだまされて慰安婦にさせられた証言者として、金福童さんがいる。
P84~88)
P84~88)
ここで重要なのは、「区長と班長、日本人が来て、「挺身隊に娘を送れ」と言われた」部分であり、これは業者と公的機関が結託していた事を示している。法令がなくても当時、警官や役人が企業と結託する事があったのは、慰安婦ではなく男性が炭坑の”たこ部屋”などに送られた「強制動員」の事例にもみる事ができる。軍の許可書を持った慰安所の業者は、警察官や面事務所の人間にとって、協力すべき相手に見えたのかも知れない。あるいは他の「動員」に紛れ、警察官や面事務所の人間も騙されていた可能性がある。
この論文の最後に「女子勤労挺身隊」として動員されたとすれば、それはだまされたという事であり・・・」と高崎宗司氏は書いているので「騙し」について少し書いておきたい。
騙して連れて行くのも「拉致」である