河野談話を守る会のブログ2

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右翼論壇に蔓延する「挺身隊」という言葉に対する無知から生じる誤解・・・その1



           「挺身隊」という言葉に対する無知

「挺身隊」という言葉に対する無知から生じる誤解が右翼論壇には蔓延している。

例えば、豊田有恒氏が1995年に出版した『韓国が危ない』PHP)P27~P28には、こう書かれている。

70年代には、いわいる従軍慰安婦問題なる問題も、まったく存在しなかった。なぜならこれはそもそも発端からして100パーセント捏造だからである。



それで豊田有恒氏にとって何が100パーセント捏造なのかというと

1990年代の初め韓国のさる新聞が、挺身隊なるものに関して報道した。これは、第二次世界大戦の時代のことで、勤労挺身隊という制度があったことを意味している。これ自体は正しい。私の9歳年上の姉も、当時の女学生だったが、近所の中島飛行機の工場に通い、働いていた。第二次大戦末期である。・・・・・(中略)・・・ところが、この勤労挺身隊、略して挺身隊が韓国の若い新聞記者の誤解から、とんでもない騒動を引き起こすことになった。・・・・・・(中略)・・・・・・・実際、挺身隊は内地では早くから行われていたが、朝鮮では1944年になってからだった。・・・・・朝鮮に関しては、勤労挺身隊に徴用することに多少の遠慮があったのだろう。そのため、内地より遅れて始まったのである。
だが、そうした史実も知らずに、韓国では挺身隊が一人歩きをしてしまった。現在も「挺対協(チョンテヒョブ)」と言う団体が活躍しているそうである。挺身隊問題対策協議会の略だという。伊貞玉(ユンチョンオク)という人が、初代の責任者で、ソウルの日本大使館には数百回もデモを敢行したそうである。いまだに誤解が続いているのだ。

と言う事だが、ここで豊田有恒氏の勘違いの一つは、「挺身隊」=「勤労挺身隊」という勘違いである。

韓国では慰安婦の事を「挺身隊」と呼んだが、これは必ずしも勤労挺身隊」とイコールではない。それはこの項の最後につけた尹明淑氏の論文からも明らかである。
戦前の右傾化した日本社会では、「挺身隊」という言葉はポピュラーであり、大正時代にはすでに使われていた。これはもちろん、1944年から始まった女子勤労挺身隊」の事ではない。少し書きだしておこう。


    戦前、日本社会においての「挺身隊」という言葉

戦前、日本社会においては、「挺身隊」という言葉はポピュラーであった。
以下いくつかの例を「アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/から抜き出し、書いて置こう。



*(2)【 レファレンスコード 】A06031060300
公文書においても、1938年の内閣情報局関係出版物週報 第110号、
*(3)【 レファレンスコード 】A06031060300
写真週報 8号にすでに、「挺身隊」「鉄道挺身隊」という使われ方をしている。





*(6)38年の第104師団戦闘経過及教訓集 には「南進シ我捜索隊特ニ安民挺身隊ヲ攻撃スルノ」と書かれ、


*(7)【 レファレンスコード 】C13031867400 陣中日誌 甲第8号 自昭和15年6月1日至昭和15年6月30日には岡本支隊挺身隊の名前が見られる



*(8)41年には帰徳陸軍特務機関に「青年挺身隊組織」があった事が書かれている。







*(11)【 レファレンスコード 】A03024658100 部報 第78号重慶UP新聞電報放送(十三日)には「支那軍はなほ宜昌東北方の漢口―宜昌公路を通ずる主戦線を防衛している。しかしこの一万五千の挺身隊は六月八日に沙市を出発し・・・・」と書かれている。



以上から分かるように「挺身隊」という言葉は、戦前日本では非常にポピュラーな言葉だったのである。かならずしも、女子勤労挺身隊」の事だけを指しているのではない。これは例えば、紅白歌合戦の「赤組」と日比谷中学の運動会の「赤組」が同じ言葉であっても、違う存在であるようなものだ。

「挺身」という言葉自体の意味は「自ら進み出ること、自分の身を投げ出して物事をすること」である。
広辞苑 第四版』岩波書店、1995年)




ここから転用され「愛国行動」を表す言葉としての「挺身」という言葉は、右翼団体が好んで使った言葉であり、1931年の満州事変以降、急激に右傾化する中で日本国中に氾濫するようになったのである。大政翼賛会の規約第4条にも使われており、戦後も花王石鹸株主総会事件などで逮捕された「防共挺身隊」などの右翼団体の組織名に使用されている(『右翼辞典』P86)。



           朝鮮半島で勤労挺身隊」以外の使われ方

朝鮮半島でも必ずしも「女子勤労挺身隊」のみを「挺身隊」という訳ではなく余舜珠氏は、「1940年11月13日付け『毎日新報』に「農村挺身隊」の結成が報じられた記事」について書いている余舜珠日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究』)(尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人慰安婦明石書店、2003年 P295)。


ここでいう「挺身隊」は、「女子挺身隊勤労令」が施行される以前から使われていた言葉である。
豊田氏は「実際、挺身隊は内地では早くから行われていたが、朝鮮では1944年になってからだった。」と書いているが、秦郁彦氏さえ書いているように「女子挺身隊勤労令」によらない女子への動員がなされており(慰安婦と戦場の性』P368)、43年に沼津工場 に行った甲先さんの証言もあるhttp://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/touasa.html

この豊田氏の勘違いは大師堂経慰氏の慰安婦強制連行は無かった 河野談話の放置は許されないのP27や秦郁彦氏の慰安婦と戦場の性』のP187,P366~P367に共有されており、どちらも「韓国(や朝日新聞)が、慰安婦と挺身隊を混同させている」というような意見を書いているが、それ以前に「挺身隊」という言葉を無条件に女子勤労挺身隊」の事だと思い、これを混同させてしまったのは自分達なのである。この点については、後で詳しく論じてみよう。


日本国内で「挺身」という言葉が頻繁に使われるようになると、朝鮮半島にも伝播し使われるようになった。
そこで、軍の依頼を受けた遊郭業者や周旋業者(女衒)たちが、さらに下請けの朝鮮の女衒を雇い入れると彼らは、純情な農村の娘達を騙くらかすために「お国のために役に立つ」とか「○○挺身隊の仕事」「○○奉仕隊の仕事」「○○報国隊の仕事」「兵隊の被服の仕事」「兵隊の食事の世話」とか言い募ったのである。

その具体例をいくつか書いておこう。



        こんな風にして騙した

従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54
陸軍パイロットの証言、場所:マレー
 マレーの場合、飛行場は町外れにあったので、町にある慰安所までは、一、二里あります。そこで慰安所に行くときはトラックにギッシリ乗って行きました。中隊ごとに200人ぐらいが外出しました。……「トミコ」という源氏名朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が「私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて…もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。



1942年の春、満ソ国境の近くの小城子という町で独立守備中隊が駐屯し、軍専用慰安所があり、そこに「又春」と言う名の朝鮮人慰安婦がいたという。 彼女の育った家は、別に貧しくもなかったが、町の世話人のすすめで、満州女子奉仕隊の応じたという。その時彼女は19才(満18) であった。仕事は日本兵の衣類の繕い物から洗濯などで、月給は住居つきで100円、支度金の欲しいものには30円の前渡しという触れ込みであった 。・・・・・
『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年 





憲兵だった土金冨之助は『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』(創芸社,1977年)の中で次のように述べている。

土金冨之助はスマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった

 (慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
 私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。
 彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……
 将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。



この資料の重要な点は、この回想記が出版されたのが、1977年であるという事である。
韓国で慰安婦の研究がなされ始めたのが80年代後半であり、尹明淑女史が「ハンギョレ新聞」に『挺身隊取材記』を書いたのが、1990年1月である。「挺身隊問題対策協議会」(1990年)が造られる10年以上も前に「挺身隊という名目で集められた」という証言が書かれているのである。

慰安婦110番」でも

通信教育隊 1992年73才

黒龍江省富錦で一人の朝鮮人慰安婦から聞いたもので、「『関東軍戦時特別挺身隊』という事でしたが、実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました。・・・・朝鮮人女性は、京城の駅に2000人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろされました。そこで、20人から30人に分けられ、また列車に乗せられ、各地に送られて行きました。


という話が掲載されている。この話はおそらく「関特演」の際の徴集だろう。



ところでついでに書いておきたいが 豊田有恒氏が書いている「勘違いした若い新聞記者」は1992年の話であり、豊田氏は「慰安婦と挺身隊の混同の、これが発端」みたいに書いているが、すでにその時には「挺身隊問題対策協議会」が存在しており、発端でも何でもない。紛らわしい書き方はやめて欲しいものである。




        「挺身隊」という誘い文句でだまされた 慰安婦たちの証言



挺身隊という誘い文句でだまされて慰安婦にさせられた証言者として、金福童さんがいる。


慶尚南道梁山に暮らしていたが、区長と班長、日本人が来て、「挺身隊に娘を送れ」と言われた。下関→台湾→関東に行き、慰安婦をさせられた。
『証言ー強制連行された朝鮮人慰安婦たち』明石書店
P84~88)




ここで重要なのは、「区長と班長、日本人が来て、「挺身隊に娘を送れ」と言われた」部分であり、これは業者と公的機関が結託していた事を示している。法令がなくても当時、警官や役人が企業と結託する事があったのは、慰安婦ではなく男性が炭坑の”たこ部屋”などに送られた「強制動員」の事例にもみる事ができる。軍の許可書を持った慰安所の業者は、警察官や面事務所の人間にとって、協力すべき相手に見えたのかも知れない。あるいは他の「動員」に紛れ、警察官や面事務所の人間も騙されていた可能性がある。

高崎宗司氏の論文「半島女子勤労挺身隊」についてには、金福童さんの朴スニさん、金ウンジンさん、李在○さんの話が書かれている。

女性のためのアジア平和国民基金編『「慰安婦」問題調査報告・1999』





朴スニさんは、1944年9月、担任に勧められて富山の工場に行くはずだったが、先輩女性に「挺身隊というけれど軍人たちの相手をする慰安婦だ」と告げられた。(『強制連行された朝鮮人慰安婦達』P225~231)



金ウンジンさんは、富士の不二越の工場に行ったが2月ころ爆弾が落ち、青森に行き慰安婦にされた。『強制連行された朝鮮人慰安婦達』P238~243)




李在○さんは、姉の代わりに「挺身隊」に行き、東京につれて行かれ20人ぐらいの女性が「満州」や「南洋」に行けと言われていたと証言している。(『証言 従軍慰安婦 女子勤労挺身隊』P66,67)



この論文の最後に「女子勤労挺身隊」として動員されたとすれば、それはだまされたという事であり・・・」と高崎宗司氏は書いているので「騙し」について少し書いておきたい。


           騙して連れて行くのも「拉致」である

「騙された」という事について少し書いておこうと思うが、朝鮮半島においての慰安婦徴集のほとんどは、騙されて連れて行かれたのである。しかし騙して連れて行った事も、「拉致」に違いない