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元々日本の遊郭システム自体が、犯罪行為の温床であり、その犯罪行為を植民地や戦地にまで広げて行ったのが、皇軍の慰安所であった


元々日本の遊郭システム自体が、犯罪行為の温床であり、その犯罪行為を植民地や戦地にまで広げて行ったのが、皇軍慰安所であった・・・・


日本の遊郭制度について、本ブログでもいくらか考察を加えて来た。元々、神社の祭礼の一部として生まれ発達した日本の遊郭は、やがて江戸時代には遊郭廊主達の徹底した”金もうけ主義”の中で「廻し(お客がいればいくらでも客をとらせる)」や「騙し(客を騙す)」などの人間性を失ったシステムを造り出して行った。この「廻し」という言葉は、今日でも「強姦」を指して使われる言葉である。
また、江戸時代の遊郭に娘を供給するために発達した裏社会システム=女衒は各農村に赴いては、娘を安く買いたたき、あるいは騙し、あるいはかどわかしたのである。こうした女衒の犯罪的な「人買い」のやり方が、慰安婦の徴集でも使われ、植民地や占領地に蔓延したのであった。

さてその犯罪行為を一つ一つ調べて行こう。

まず「廻し」について

          「廻し」=「強姦}の語源

18世紀末から19世紀初頭の世事を記録している『世事見聞録』武陽陰士)にはこう書かれている。

「廻しといって5人でも10人でも客のあり次第に廻して相手させる。年いたらぬ者にむりな勤めをさせ、色欲強請な大人の相手をさせ、病気も構わずせめ遣う・・・」


これは、すでに性奴隷制度であったと言えるし、語義から言っても「強姦所」の誕生であったと言える。これより2000年も前の古代ローマ帝国における悪名高い奴隷「売春宿」でさえ、これほどの色地獄ではなかった。後に日本軍が沖縄に慰安所を造った時、辻遊郭から500名の女性を徴集したのだが、この時、辻遊郭の女性たちは、「一日に相手は一人」が普通だったので悲鳴を上げたという。また以下のシンガポールの売春婦たちも4,5人で悲鳴をあげているように、一日に複数人数の相手は、それ自体が「性奴隷」と言える。


E総山孝雄少尉(近衛師団シンガポールでの体験

一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。
ところが慰安所へ着いてみると、彼女らが想像もしていなかった激務が待ち受けていた。昨年の一二月初めに仏印を発ってより、三ヵ月近くも溜りに溜った日本軍の兵士が、一度にどっと押し寄せてきたからである。・・・(中略)・・・英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂って悲鳴を上げてしまった。四、五人すますと、

   「もうだめです。体が続かない」

  と前を押さえしゃがみ込んでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と仕切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、止むを得ず女性の手足を寝台に縛り付け、

   「さあどうぞ」

  と戸を開けたという。


日本では、それが江戸時代から続いていたので、慰安所においても違和感を抱く者は少なかった。人権蹂躙が慢性化した社会だったと言えるだろう。

そして、日本が植民地を拡大する事で、この「廻し」を含む犯罪行為の温床であった遊郭システムは、朝鮮や台湾に拡がって行ったのである。