河野談話を守る会のブログ2

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【総力特集】 河野談話補足談話サンプル

本来、河野談話攻撃に対して、日本政府は反論しなければならない。
日本政府に対してそのためのテキストとして、慰安婦問題研究団体として補足談話サンプルをここに提供する。 
                        [河野談話を守る会]



河野談話補足談話サンプル


河野談話補足案 コンセプト


①20年間の研究成果を導入細部をより明確に主語、責任の主体を明確に談話を出す主体も明確にすべきより強い良識を内外に示す⑥「侵略戦争」の中で引き起こされた問題である事を明示ここで示した談話案自体がそのまま政府に採択されるものではなく、参考にされるべきである。⑧注釈をつけたのは、これらの資料を日本政府が確認するとともに、資料を使って反論できるようにするためである。

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河野談話補足サンプル
説明文
 
19938月。当時の内閣官房長官である河野洋平氏は慰安婦に関する談話を発表した。この談話は政府がそれまで約2年間に収集した資料と韓国人元慰安婦たち16名の聞き取り調査の結実として、戦争下で性暴力の被害を受けた女性達に対する日本国の責任を述べたものである。内容は秀逸であり、当時理解されていた事実を端的に表現するとともに日本人の良識を世界に示していた。ゆえにその後歴代内閣がこれを踏襲して来たのである。しかし、それから20年が経ち、その間多くの元慰安婦の方々が名乗り出られ、又新しい資料が発掘が相次ぎ、主に日韓の歴史家によってその実態をより明確にする多数の研究論文が書かれた。94年にはオランダ政府が慰安婦関連資料を公開し、96年には警察資料6点が発見され、地方自治体や警察が慰安婦の徴集に関わっていた事が明らかとなった。徴集および戦地における慰安所の実態について、現在発見されている史料と論文によって河野談話の見解を補強する事が可能である。ゆえに河野談話が「民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。」と述べているように、その成果を反映した新たな補強のための談話が必要であろうと思われる。2014年今日、これらの研究成果の蓄積を取り入れ、より正確な慰安婦像を描き、良心に基づく新たな決意を閣議決定し、首相談話として表明する事が望ましいのである。またこの新しい談話は、日本がかつて「性奴隷制度」を造った国として痛切な回心を経験し、21世紀以降の未来に「戦時性暴力の根絶」を目指す決意を表明するものでなければならない。このようにしてのみ、今日日本が抱えている外交上の諸問題を解決しうるであろう。

 
            河野談話補足談話案サンプル
 
20世紀中葉、我が国は右傾化する世相に抗する事もできず、軍閥が始めた侵略戦争に国民全体が巻き込まれて行った。満州事変がはじまると、軍は慰安婦制度を造り、戦争の拡大と共に、女性への被害をも拡大して行った。その過程で様々な不幸を引き起こした事について我が国には多大な責任がある。
被害に遇われたのは、中国、フィリピン、インドネシア、オランダ、オーストラリア、台湾、朝鮮、日本、マレー、タイ、ビルマ、インド、東チムール・・・など、おおよそ日本軍が進攻したほとんど全ての国の女性たちである。
慰安所は、当時の軍人の欲望を満たすために軍当局によって造られたものであり、しばしば占領地で接収した学校や教会が慰安所に造り変えられた。慰安所には有刺鉄線が張られたものや歩兵が立って逃げないように見張り①をしたり、軍によって著しく自由を侵害する規則が造られていた②事も判明した。慰安婦の徴集は、占領地においては軍が直接強制動員する場合③や地元の有力者に軍の威力を背景に女性を供出させたり④、単に強姦するために女性を集め慰安婦状態にした場合⑤もあった。
日本国内およびに植民地においては、おおむね当地の権力システムと周旋業者を使いいわいる強制連行と同様に民間主体方式や官斡旋方式など⑥がとられた。記録や証言の中で直接に暴力的な手段は少ないが、就業詐欺に当たるものが大半を占めており、この点で当時の将兵の回想録⑦も被害者の証言⑧も一致している。
日本軍慰安婦制度の成立の基礎となった日本の遊郭制度は、人身売買を伴いながら江戸時代に発達し、明治以降も繁栄したが、多くの女性が就業詐欺とかどわかしの被害を受け苦しんだ⑨。さらに遊郭では儲け主義が横行し、廻しと呼ばれる日本独自の売春方式⑩を生んだ。これはお客があれば、何人でも客を取らせるという苛酷なシステムであったが、廃業の自由は無かった。明治時代には建て前上での廃業の自由が謳われたが、実質自由廃業は不可能であった。やがて日本が植民地をつくると植民地でも同様なシステムが伝播されて行き、さらに戦時下の慰安婦システムでも同様な方法により女性の人権をことごとく侵害したのである。この不幸な遊郭制度が元となり、日本軍慰安婦制度が造られたので、当然それは人権を大きく侵害し「性奴隷制度」というしかないものであった。
いづれにしても、国家が遂行する戦争に国民を全面協力させる総動員法の強制力が働いており、その総動員の目的は軍の遂行する戦争に国民を全面的に協力させる事であった。ゆえにその軍の依頼と命令を受けた業者が騙したような場合も、軍の威光を笠に着た強制力が働いていたのである。これらの業者は軍属として扱われた⑪。ゆえに業者が就業詐欺を行った場合も、あるいはその業者が雇った者たちが就業詐欺を行っても首謀者としての責任⑫が、日本軍にある事は明らかである。
戦地における慰安所には人を殺害することに馴れた、獰猛な軍人が多く詰め掛けた⑬ので、慰安婦となった女性を撲打し、骨折や聴覚破壊などの身体障害⑭、妊娠と中絶による妊娠能力の破壊などその女性の人生全般を破壊してしまうような結果をもたらし、何度もフラッシュバックに襲われるような精神障害⑮をさえ負わせたのである。侵略戦争を始めた日本国は慰安所システムを造った責任を負うと共にこれらの障害について全面的な責任を負っている。また慰安の報酬は与えられない事が多かった。
こうした事実を踏まえ我が国として、女性の人権を踏みにじった事に深く遺憾の意を表明し、「歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さない」とした河野談話を継承、発展させ歴史教科書への明記を約束し、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

そして日本国としては、21世紀を「女性の人権の向上」と「性暴力の撲滅」の世紀とし、これに貢献したい。

   日本を代表して ○○○○
 

以上がサンプルの骨子である。これに【脚注】をつけるのは、この文章の知的根拠を示し、加えられる攻撃に対して反論を可能にするためである。河野談話の中の「総じて」「強制」などの言葉に対して、談話の趣旨に反発する勢力から攻撃が加えられたが、それに対して日本政府から十分な反論がされたとは言えない。とりわけ「慰安婦はただの売春婦(商売)だ」などの言説は、河野談話とその基礎事実から大きく乖離しているので、これに対して反論をしなければならない事は明らかである。

【脚注】
①     ■積慶里入口の門には憲兵と歩哨が立っていた。(『長沢健一『漢口慰安所P5460』■洪愛珍(ホンエジン)さんは 漢口の慰安所から逃げ出したが、憲兵隊に捕まった。(『中国に連行された朝鮮人慰安婦P54)■ 『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年 須藤友三郎『インドネシアで見た侵略戦争の実態』北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所、「朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……  「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。  しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシア若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。■エリープローグさんの証言では、慰安所の外にはいつも剣をさげた2名の歩哨がいた。「逃げれば憲兵隊に捕まるぞ」「家族に何が起こるかわからないぞ」と脅されていた。「働かなければ食事を与えない」と言われていた。実際に逃げた友人は連れ戻された。(従軍慰安婦』P181-183) 海軍職員用ノ性慰安所ハ守備隊ガ経営シマシタ。司令ノ下ニ通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリ/SUGASAWA AKINORI/ガ主任トシテ置カレ、日常ノ事務ハ当直兵曹長ワタナベショウシ/WATANABESHOJI/、ガ執ツテ居マシタ。日本人ト以前カラ関係ノアツタ婦人達ハ鉄条網ノ張リ廻ラサレタ是等ノ性慰安所ニ強制収容サレマシタ。彼女等ハ、特別ナ許可ヲ得タ場合ニ限リ、街ニ出ルコトガデキタノデシタ。慰安婦ヲヤメル許可ハ、守備隊司令カラ貰ハネバナリマセンデシタ(東京裁判の際にオランダが提出した資料「日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオニ於ケル強制売淫行為ニ関スル報告」)
彼女等は朝鮮ピーと違い、現地で徴発した支那ピーで、半分は素人、半分がセミプロ程度のようだった。軍政部から金が支払われている。二台の車に分乗させ、逃亡されないように警備も分乗する。(森利『モリトシの兵隊物語ー一兵士の哀歓ー』(1988年,青村出版社)227~228)
②      軍は慰安所開設にあたって将兵、業者、慰安婦に対する規則を定めたが、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の慰安所規定では散歩する場所や時間も8時から10時までと決められていた。(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』P325~326)ペポンギさんの証言では沖縄では散歩は海岸方向だけに限定され、宋神道さんの証言では武昌の慰安所では、月に一度しか休みがなく、その休日も外出は禁止されていた。
③      東京裁判において「桂林を占領している間、日本軍は強姦と略奪のようなあらゆる残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。」(『極東国際軍事裁判速記録』10巻)■浦部一人編『独山二―もう一つの戦争』「次の姑娘も・・保長や維持会長から、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?」■同隊編集委員会『歩兵第二十一連隊第十二中隊』P22、「分遣隊長の軍曹がそこの村長を呼びだし、女を連れて来いと強要した」■山西省の3例や海南島の裁判で軍による強制動員と強制売春が事実認定されている。 (坪川宏子、大森典子『司法が認定した日本軍「慰安婦」』P51~55
④     ■溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58 山口時男軍医の1940811日の日記 19408月、中国中部の湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、20数名の若い女性が集められた。■原一男『山砲の江作戦』p384大隊長手記「治安維持会長余光南氏が、前の警備隊長の治安維持に要求した事項の筆頭に姑娘があったように、小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力が無いので、中国側の協力に期待することになっており、ある場合には強制という形になっていたかも知れない。」■宮谷重雄『わが戦記・恥さらし』新京陸軍経理学校第5期生記念文集編集委員会『追憶』上巻、p146、「師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると『宮谷大尉は、至急民家を改造して兵隊用の慰安所を造れ、ついでに洛陽で女も集めて来い』という命令である。もうこれは、メチャクチャである。」■堀江貞雄『声なき戦線―兵站物語』61~64、堀江大佐によると鯨兵団某連隊が「中国女性を4、5人おいて慰安所を経営」していたという■鈴木卓四朗『憲兵下士官p50~51、「参謀部の命令を受けた兵站部は、憲兵隊に秘して市井の婦女子を集め慰安所を開こうとした」■下津勇『泥棒と黄塵』1942年フィリピン、ルソン島に駐屯していた中隊は、大隊副官の命令で慰安所を造ることになったが、各中隊駐屯地の町長に集めさせた。■高野部隊戦友会『高野部隊ミンダナオ島戦陣記』44年、ミンダナオ島で飛場行場設営隊の主計将校はバダオの有力者を訪問し、斡旋を依頼、6名が集まった。
⑤       マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんの証言によると日本軍に拉致され一定期間監禁と強姦を受けた。フィリピンの被害者のほとんどが同様の被害を訴えており、ルファーナ・フェルナンデスさん、プラシラ・バルトルコさん、パウラ・アティリョさん、ピラール・フリアスさんなどの証言が代表的な例である。一方、オランダ政府が1994年に公表したスマラン事件、フローレス事件、マゲラン事件・・・など8例の全てが強制的の集めた女性を一定期間監禁し、集団強姦した事件であった。フローレス事件では兵士は切符を被害者に渡しており、この強姦+監禁が慰安所の一形態であった事が分かる。中国でも同様な手段による監禁・強姦して慰安婦状態にする事件が起っており、ほとんどが暴行・脅迫によっている。山西省の3例や海南島の裁判で軍による強制動員と強制売春が事実認定されている。 拉致、および拉致に近い強制連行の認定を受けたのは、35人の内31人。(坪川宏子、大森典子『司法が認定した日本軍「慰安婦」』P51~55
⑥     植民地朝鮮半島における愛国班は日本の隣組にあたる組織。約10戸から成り,宮城遥拝,勤労貯蓄,日の丸掲揚,神社参拝,日本語常用,〈皇国臣民の誓詞〉の斉唱,勤労奉仕,国民服と戦闘帽の着用などの神社崇拝と軍国主義朝鮮人を動員したシステムの一つである。
■庵逧由香による研究『朝鮮における戦時動員政策の展開ー国民運動の組織化を中心に』「日中戦争を契機に、中央連盟ー地方連盟と学校、職場の各種連盟ー愛国班による二重の組織化・統制が朝鮮民衆を戦争動員に引き入れて行った」
⑦      将兵の回想記の中には、慰安婦が就業詐欺によって集められた実情を書いたものが多くある。例;■『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』1977p.32島本重三元第七三三部隊工兵一等兵による回想 、■長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』、■本田勝一天皇の軍隊』P293~294)第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言、■土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』、■菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録、■小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』、■『こんな日々があった戦争の記録』須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」、■伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史- 兵営と戦場生活』番町書房p.212、■伊藤桂一『戦旅の手帳』■『従軍慰安婦110 - 電話の向こうから歴史の声が』p.54陸軍パイロットの証言、■『特集「慰安婦100人の証言』DAYS JAPAN20076月号,p.16 独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、■山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』 第十八師団の兵士の証言、■輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』 カリマンタン・タラカンにいた同中隊の戦中記に記された兵士の記録、■河東三郎『ある軍属の物語- 草津の墓碑銘』海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、■鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年 海軍所属の兵士・鹿野正伍の記録、■林博史マレー半島における日本軍慰安所について』http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htmシンガポールで陸軍通訳の永瀬隆の証言、■アメリカ戦時情報局心理作戦班アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 194410月1日 「この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた・・・このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し」・・・など
⑧      ■宋神道さん「働けば金が儲かるところさ、そうしたら一人で生きて行けるから・・・」と騙された(『もっと知りたい「慰安婦」問題』p12,13)■ 朴スニさん「富山の工場に行くはずだったが慰安所へ」(『強制連行された朝鮮人慰安婦達』P225231)、■朴ピリョンさん「「子守の仕事をしないか」と言われ」(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P134) 、■易英蘭(ヨクヨンナン)さん「「工場に行く」と騙されて」(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P148)、■河君子さん「「工場に行く」と騙されて」(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P69)など■台湾では15人の証言の内13人が就業詐欺の証言である(『「慰安婦」バッシングを越えて』P30)。「区役所からの仕事の抽選で」(李淳さん)「看護婦の助手や炊事の仕事」(黄阿桃さん)など
⑨     明治政府は明治五年の紹介営業取締規則によって鑑札を交付し、少女を遊郭に沈める女衒稼業を独立した紹介業として認めたが、女衒の実態は“就業詐欺”と“誘拐”“人身売買”などの犯罪の温床であった。■森 光子『吉原花魁日記』 「「怖いことなんか、ちっともありませんよ。お客は何人も相手にするけれど、騒いで酒のお酌でもしていれば、それでよいのだから・・・」 そんな周旋屋の甘言を真に受けてどんな仕事をさせられるかも知らぬまま、借金と引き換えに吉原に赴き、遊女の「春駒」となった・・」■『サンダカン八番娼館』南方の女郎屋の親方太郎造は村の少女たちに「外国さ行けば毎日が祭り日のごたる。良か着ものば着て、白か米んめしばいくらでも食える。じゃけん、おまえもいかんか」と騙したという。■山室軍平『社会廊清論』「誘い口は、今度満州長春の手堅き商家にて、下女が三人要るので雇い入れに来ているものがある。月給は一〇円くれるとの事だが、行くものはないかしら」■司法研究所『刑事裁判例P52~55、一九三八年五月、華北の済南で料理屋を営む森本某が酌婦募集のため金沢に来た時、竹部某(詐欺前科あり)が甘言をもって33歳の女性を周旋した(「金沢地裁判決」)■『大審院刑事判例集』一四巻、「国外誘拐移送同未遂国外誘拐被告事件」では、「一年も働けば札束を背負って帰国できる」「見請けする」などの甘言
⑩     ■『世事見聞録』(武陽陰士)「廻しといって5人でも10人でも客のあり次第に廻して相手させる。年いたらぬ者にむりな勤めをさせ、色欲強請な大人の相手をさせ、病気も構わずせめ遣う・・・」■『サンダカン八番娼館』「一晩に三〇人の客ばとった」「月に一度や二度はどげに商売に馴れてからでもそれこそ死のごとなるほど客ば取るのが嫌になった。何の因果でこげな商売ばせんならんかと涙のこぼれた事もある。・・・せめて休みにしたかったが、うちらには1日も休みは無か。」 ■金徳鎮さんや李英淑さんは、1日に処理する慰安の回数があまりに多いので、性器が腫れあがって出血したという。(『証言―強制連行された朝鮮人慰安婦たち』P63,64,77)、
⑪    陸軍大臣が制定した軍の内部規則である陸達第48号「野戦酒保規程改正」(1937929日)によれば、「・・野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」とあり、慰安所が軍の野戦酒保に付設された後方施設であったことを裏付けている。(永井和『日本軍の慰安所政策について』http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html#SEC10)また1942年から業者は軍従属者として扱われている。(*「作戦要務令」(1938929制定)の第3部第7編「憲兵」の第280条及び第283条によれば憲兵は軍従属者も取り締まらねばならず、「軍従属者に対する旅行許可の件」や日高巳雄著『陸軍軍法会議講義』によれば、「部隊に編入せられたるに非すして、部隊に随従し部隊の長の監督下にある者例えは従軍記者、酒保商人等」を「軍従属者」とみなしたのである)■『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成1 P169ハノイ栗山茂事務総長発青木東亜大臣電報【軍従属者に対する旅行許可の件】」(1943310付)、■吉見義明『従軍慰安婦資料集』P147,148「在サイゴン鈴木六郎支部長代理【仏印ヨリ内地、満洲国、支那、「タイ」向旅行許可ニ関スル件】(194328日付)」、■P149,150【在ハノイ栗山茂事務総長『軍従属者ニ対スル旅行許可ノ件』(1943310日付)」などで慰安所員は「軍従属者」と呼ばれている。■華 公平『従軍慰安所「海乃家」の伝言海軍特別陸戦隊指定の慰安婦たち P70では「海軍特別陸戦隊から私達も軍属の証明書を・・・私も楼主の家族ということで軍属の身分でしたから証明書をもっていました。」と述べている。
⑫    ■【南支方面渡航婦女の取り扱いに関する件】「本件極秘に左記に依り之を取扱ふこと」「何処迄も経営者の自発的希望に基く様取運び之を選定すること 」■『玉の井挽歌』(青蛙房)1938年ごろ軍は業者に軍慰安婦を集めるように依頼し、遊郭業者国井茂の話によると陸軍省の将校から呼び出され「業者のみなさんが自主的にこれを経営するという形を取りたい。まさか軍が女郎屋を経営する訳にはいかんのでね。」と言われたという。