河野談話を守る会のブログ2

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将校用慰安所には日本人慰安婦が多くいた

 
将校のみ専属の慰安所には日本人が多かった。これは料亭、将校クラブの形をとっていた。
 
たとえばビルマのラングーンやメイミョウには翠香園という将校クラブがあった。久留米から来たこのクラブの女性は日本人だった。
 
マンダレーには慰安所は9軒あり、海乃家が将校慰安所朝鮮人慰安所3軒、中国人慰安所1軒、ビルマ慰安所3軒があった。夜9時以降は将校用になった。(『駐屯地慰安所規定』1943,5月26日)

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もともと南洋諸島で娼婦をしていた(当時すでに36歳だった)高梨タカは、「儲けてやろう」と思って、南京の将校用慰安所に入った。仲居兼用慰安婦だったようだ。(玉井紀子『日の丸を腰に巻いて』)
 

芸者をしていた菊丸も42年、トラック諸島にある海軍士官用慰安所に行った。海軍直営の慰安所であり、慰安婦は「特殊看護婦」と言われ、軍属扱いだった。「あたしたちは将校用だったため」に「慰安婦としては恵まれていた」「1日1人の相手をすればいい」と証言している(広田和子『証言記録 従軍慰安婦 看護婦』http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64275456.html
 
 水野いくさんも「1日一人相手にすれば良かった。朝鮮人とクロンボはたくさん客をとらされていた。」という。(『思川ー山谷に生きた女たち 貧困・性・暴力 もうひとつの戦後女性史』宮下忠子http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64275456.html
 
 「なお時計台から南へむかう環城路の両側は、主として軍の慰安施設が多く、ゆたか、桃園など、小料理屋、料亭がならんでいた。通りの西側、甘棠湖畔にがんばる憲兵分隊を過ぎると、その隣家から先は慰安所街で、日本、朝鮮、中国など各国の遊女をかかえた慰安所十数軒がノキをならべ、その先は甘棠湖畔にある将校クラブ(将校用慰安所、料亭日華荘までで邦人居住地区は終わっていた。」

(井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』、図書出版 1980年11月20日、p172-173「九江の軍慰安施設、1941年6月」)
 
 
 
 歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか
 考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。「その後この少女たちはどうなったろうか」
 
 (小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63673963.html?type=folderlist




大隊本部がある太原には慰安所がありました。……日本人女性は将校専用なので下級兵士は行けません。朝鮮人と中国人の2ヶ所が下級兵士用です。

『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16 独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、場所:中国北部の山西省太原 http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63673977.html?type=folderlist 



           最初に将校が強姦して慰安所に放り込んた事例
 
看護婦募集と騙され、チモール島に送られ、将校から強姦された。(台湾)(『世界に問われる日本の戦後処理』)
 
ジャンヌ・オフェルネ「・・・開館の夜には多くの将校がやって来た。・・・・恐怖に震えうずくまっていた少女たちは、泣き叫び、抵抗する中で、食堂から一人づつ引きずり出されて行った。・・・・」(『レイプされた女の叫び』)
 7人の女性がそのような目に合わされたという。