河野談話を守る会のブログ2

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慰安婦資料用 元日本兵の戦記・日記(2)

 
単なる資料用ですので、特に解説を加えていません。

これまで掲載したものもあれば、まったくネット上には出ていないものも有ります。






長沢健一 『漢口慰安所』 図書出版社 1983

漢口兵站司令部付の軍医
中国中部・湖北省武漢
1940


女は昨日午後、内地から来たばかりで、今日検査を受け、あしたから店に出すことになっているが、検査を受けないと駄々をこねて困っているという。 
私は女を呼び入れさせた。赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉でなきじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを 慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く…… 
(契約書は一般に)はじめに借用証文、次の行に、一、何千円也、ついで右借用候也、右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也と書かれ・・・・
翌日、昨日の女が同じ二階回りと業者にともなわれてやって来た。……今日は覚悟してきたのか、おとなしく診察台に上がった。袖で顔をおおい、脚は緊張して固くなりぶるぶる震えていた。 





和気シクルシイ 『戦場の狗』  筑摩 1993
 
1941,42
 
士官学校出でもなく、大学出でもないのに、松岡洋右の私的諜報員だったがゆえに「将校」であった著者は、ラオスからタイに向かう途中で、安南山脈を越える山中で以下の光景を。
 
「その夜、私たちは部隊と共に行動している大勢の女性を見た。日本人、朝鮮人、中国人など服装の違いで分かる。女たちは話し合うでもなく、黙りこくって・・・・一様に明るさがなく、暗い顔をしていた。」
 
住んでいるのはバラック長屋で
「女たちは30人から50人ほどの集団で戦場の後方陣地を回って、兵士たちの性欲を満たしている。」
 
 
「・・・扉の外にはまだ20人ほどが順番を待っていた。これはもう輪姦に等しい。扉に書かれた数字のしたの線の意味は、下士官と兵の区分だと分かった。将校用には別のクラブが用意されているということだった。」
 
*番号の下に2本線と1本線があった
 
1942,1   バンコク
「ここにも部隊について歩く女たちがいた。ここでは天幕やバラックではなく、立派なつくりの妓楼にすんでいた。軍の指導を受けた経営者が監督にあたり、女たちは街を出歩くことも許されていなかった。」
 
 
1942,2 バンコク南方チュムポン
 
「部隊について歩く女たちのうわさはここにもあった。「慰安婦」と名づけられていたが、現地人たちは日本軍は妻を伴って戦争していると考えていたらしい。」
 
 

 
寺崎浩 『戦争の横顔』 1974
 
文学者の多くが報道班、宣伝班として徴用された
 
ペナン・シンガポール
 
1941,43
 
ピナン
「海軍部隊が入ってきて、海岸地帯を手に入れていた。海岸沿いのホテルをいくつか接収し、学校を手に入れていた。翌日には若い女の子、主として中国娘を連れてきて慰安所を開いていた。」
 
 
シンガポール、1942、特務艦商船氷川丸に乗って
 
「海岸へりの上海飯店に行く。海軍将校用の慰安所だが、酒を飲んだりダンスができるようになっている。」
 
 
将校用「図南クラブ」の女性との対話
 
「「支配人て誰だい?」「日本橋の料理屋の番頭よ。それが監督にごまをすってるでしょ。だから強いのよ。」監督というのは兵站参謀のこと。一参謀の命令で、旅館、慰安所、宿舎、料亭が思い通りに動かせるのだ。」
 

 
黒田秀俊 『軍政』 1952
 
1942
 
編集者と女流作家数人が東南アジア占領地を視察。
ジャワ、マレー、シンガポール、タイ、ビルマを廻る。
筆者もその一人。
慰安婦も視察団とともに病院船で運ばれていたという。
 
 
「女流作家の人たちは、別棟の兵舎の3階に、慰問団の女や、各地に散ってゆく慰安所ゆきの女たちといっしょに泊まっていた。」
 
あとがき にて
「軍部の唱える”アジア解放”とは、これらの地域からイギリス人やオランダ人を追い出して、日本の支配の下に、もっと正確に言えば日本軍部の支配の下に、新しい体制をつくりあげることを意味するものであった」
視察団に加わった編集者の多くは、読者に嘘をつきたくないのでルポルタージュをまとめようとしなかったという。
 
 
北部ビルマ カレワ 1943
 
「宿舎の下の家には珍しく4,5人の女がいた。いずれも濁音のいえない慰安婦たちであった。少し離れたところに日本の女のいる将校用の慰安所があった。」
 
ビルマ東北国境にちかい中国雲南省
 
「竹の柱、竹をそいで組み合わせた壁、わらぶきの屋根、そして何々荘と書かれたノレンの下がっている家。これが慰安所で、私の目に触れただけでも2,3軒はあった。女たちは日中になると汚れた和服姿で表に散歩に出ていた。案外屈託なく、通りすがりの兵隊に冗談を言ったりしていた。また、いつの日に帰れるとも知れない絶望の影を感じないわけにはいかなかった。」
 
 

 
 
直井正武 『戦魂』 1973
 
タイピン、シンガポール
 
1942
 
シンガポール 1942
「・・・・・衛生部員から手渡されたゴム製品をポケットにしまうと、我勝ちに車両に飛び乗った。兵隊の行き先は、ほぼ見当がついていた。街中をぶらぶら歩き、公園での昼寝、安食堂で飯の足し食い。映画、ピー屋、なにぶん安月給の身分ではそんなところが相場である。」
 
町はずれのケーインヒル
「トタン板で仕切られた敷地には、ニッパ椰子葦のみすぼらしい楼閣が建ちならんでいた。」
「娼妓は朝鮮人が多かった。マライ人もいた。」
 
「ここの朝鮮婦人たちがどうした経緯でやってきたかは知らないが、狩出されたということだけは否めないだろう。もっとも日本人娼妓も高級用としてわたってきていたがー。」
 

 
中村八郎 『シンガポール収容所』 1979
 
 
『ある陸軍予備仕官の手記』の続編
 
「女がいないと血気盛んな男たちは多かれすくなかれおかしくなるのだ。軍隊ではそれが怖いから、占領地にはかならず慰安所というものを作って金で買える女をおいたのだ。」
 

 
総山孝雄 『南海のあけぼの』 1983
 
近衛師団の通信小隊長の個人的な陣中日記
 
 
1942
 
「2月27日、我々の駐屯地のほど近いところに慰安所が開設された。軍隊は若い盛りの将兵をいっぱい抱えている。従って作戦を終わって一地つくと、住民の女とのトラブル発生を防ぐために、一刻もはやく慰安所を開設して生理発散の場を与えようとするのが軍のならわしである。軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。」
 

 「すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と 応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌 を振りまいていた。しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五人 を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず『女性の手足を寝台にしばりつけ』てつづけさせた」

「薄板を張って小部屋を仕切った急造の慰安所の前には、兵たちがいくつもの列をつくって並んで待っていた。前の奴が時間をかけると、何しろ皆気がえいていたから、「何をいているか。早くすませてかわれ。後がつかえてるんだぞう。」と叫んで、扉をどんどん叩いたという。」
 
 
 
 
黒岩正幸  『自決命令』 1984
 
9万人が参加したインパール作戦で日本側の戦死者は4万2千。そのうち、病死、餓死が2万2千人。英印軍は1万5千戦死。餓死者ゼロ。
 
 
1943
 
「外出日は奴隷から開放されたような喜びであった。一目散に慰安所に直行するものと、・・・食堂に行くものとに分かれた。」
 
 

 
米良至剛 『インパールの十字架』 1985
 
 
1943
 
 
「夕食後、隊長以下将校連はうち連れて、慰安所をひやかしに行った。・・・部屋も壁も全部草葦である。・・・・・・」
 
敗戦一ヶ月後
タイのチェンマイ付近
 
「・・・また行軍に日々である。我々の泊まる部落からちょっと離れたところで朝鮮女性の一団を見たことがある。彼女たちはすでに我々び媚を売る気配は全くなかった。我々をむしろ汚らわしいもののように、蔑むようにじっと見つめているその眸が気になった。」
 
 
 

 
宮部十三 『ビルマ最前線』 1980
 
マラッカ 
1943
 
「・・・何万という兵隊に対して僅かな慰安所では日曜日ともなればその門前には兵隊の列が続く」
 
 
 

 
 小俣行男 『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』 冬樹社、1967

読売新聞の従軍記者

942年5月か6月

 「(朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」
 考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。「その後この少女たちはどうなったろうか」
 
 
 

 
 
 菅野茂 『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』 光人社,2005

ウェワクからラバウルに帰還した

 「帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。……メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる女たちの一団(十五、六名)が休息していた。大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
 なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。」