慰安婦パネル展のデタラメ度判定
主催は各地の「○○会」がやっているが、どの地方でも同じ写真が使われています。
協力は以下
となっています。
そもそも題名が
「従軍慰安婦の真実展」
で
「第一次史料と写真でつづるパネル展」
などと書いて有りますが、これがもうすでにハテナマーク?で
数えてみると「慰安婦に関するパネル」はほとんどなくて約90枚中の約30枚のみであり、後は「韓国の売春婦が米国にいる」「韓国併合は7恩だった」とか、あるいは「グローバリスムは間違い」式の記事ばかりが約60枚ほど展示されてありました。
どこが「慰安婦パネル展」?で
さらに、何が「第一次史料と写真で」?
なのかさっぱり分からない。慰安婦関係ではつかこうへいや呉善花の談話やらが掲載されていましたが、もちろんこれは一次史料では有りません。30枚の慰安婦関係パネルで、一次史料と言えるようなものはほとんどなく、自分達の政治的な意見を掲載しているにすぎません。また「韓国併合」関係パネルは、ほとんどが(靖国関係者である)水間政憲氏の著作からの抜粋でしょう。
水間政憲氏の著作物の写真は「併合」関係の一次史料と言えますが、残念ながら解釈が納得できないものばかりです。現在歴史学は一つの一次史料だけで判断せず、できるだけ多くの一次史料を集め総合的に判断する手法がとられています。
自分たちの好みの資料だけを展示し、政治プロパガンダをしているのが、このパネル展です。
下のパネルは黄文雄氏の著作からの引用でしょうか?
① ダレの書いた『朝鮮事情』からの引用の嘘
こういうパネルが有ります。
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しかしシャルル・ダレの『朝鮮事情』には、「各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた」と見なし得る記述は存在しません。書かれているのは、「毎年」では無く「満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合」に、「選り抜きの娘三千人を送り届けねばならず、朝鮮はいつも諸道にそれだけの女婢をかかえている」という風聞のみであり、しかも、この風聞については「いかなる宣教師も、ついにこの点に関する公的史料を発見することはできなかった」と書かれているのです。
ダレの文章を加工・捏造して「毎年」「慰安婦」を「送っていた」というお話に造り変えています。
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(シャルル・ダレ『朝鮮事情』)
それからシャルル・ダレは伝聞によりこの著作を書いており、自分では一度も朝鮮半島に行っていない事も知っておくべき知識の一つです。このパネル展では別の部分も引用してありましたが、全面的に依存できる史料ではありません。
② 江戸から明治 日本の売春事情
このパネルには、こんな事が書いてあります。
「最近では、朝鮮史の専門家までが朝鮮の妓生は、ただの「踊り子」または「楽師」、またはせいぜい日本の芸者のようなものであり、「娼妓」や「売春婦」ではないと言いだしています。しかし史実をいくら「美化」しようとしても嘘は嘘でしかありません。これは明らかに歴史の捏造です。
それは中国の娼妓史と江戸時代の遊郭の歴史を比べてみれば一目瞭然でしょう。朝鮮は階級社会であるため、階級制度が固定している社会では「妓生」制度も貴族文化に留まっています。妓生の子は妓生であり、奴婢 奴隷の身分は変わりません。その意味では隋唐時代の「妓生」制度も同様です。
一方、江戸時代の吉原を代表とする日本の遊郭制度は、大衆文化を背景としています。中国や朝鮮のものとは性質が異なるものなのです。まず遊女は年季奉公の一種であり、年季が開ければ遊郭を出ました。日本の遊女たちには職業の自由があり、一生涯の奴隷でなかったのが大きな違いです。「妓生」をただの芸者と主張する学者は無知というよりも嘘つきです。」
日本の遊郭と妓生の違い
まず、いくつもの事実誤認があるようです。
① 日本の遊郭は世界一の売春街を形成していた。
当時、丸山の全盛時代は元禄5年(1692年)で、1443人もの遊女がいたという。
東五郎が滞在していたころは、長崎に上陸する中国人は年に4、5千人もいて、唐人屋敷へ出入りする丸山遊女は毎日100人以上もいたという。
オランダ商館医として来日したケンベルは、この日本の公娼制度を非難し、廃止すべきことを強く主張している。
(『対馬物語』p119)
こうした”なまめかしい”長崎にくらべ。同じ貿易港でも釜山の「草梁倭館」は女っ気は一切なかった。すべて単身赴任で、妻子連れということはなかったし、倭館にめぐらされた高さ6尺の石垣の外へ出ることはできなかった。館外の朝鮮側の建物に用がある場合には必ず通行札を持参して行かなければならなかった。倭館内は、男性だけの閉鎖された生活といえないこともない。まるで禅寺の僧堂のような思いがする。(p146)
東五郎が滞在していたころは、長崎に上陸する中国人は年に4、5千人もいて、唐人屋敷へ出入りする丸山遊女は毎日100人以上もいたという。
オランダ商館医として来日したケンベルは、この日本の公娼制度を非難し、廃止すべきことを強く主張している。
(『対馬物語』p119)
こうした”なまめかしい”長崎にくらべ。同じ貿易港でも釜山の「草梁倭館」は女っ気は一切なかった。すべて単身赴任で、妻子連れということはなかったし、倭館にめぐらされた高さ6尺の石垣の外へ出ることはできなかった。館外の朝鮮側の建物に用がある場合には必ず通行札を持参して行かなければならなかった。倭館内は、男性だけの閉鎖された生活といえないこともない。まるで禅寺の僧堂のような思いがする。(p146)