日本政府は「日本奴隷史の中の日本軍慰安婦制度」を知るべきである
今回の国連委員会で日本政府代表部の岡田隆大使が「慰安婦を性的奴隷と呼ぶのは不適切だ」「奴隷制度の定義について、条約上の検討をした上で、この制度は性奴隷制の問題ではない。その定義に当てはまるものとは理解していない。性奴隷制度は不適切な表現である」と反論した・・・・という事を知って以来、怒りがおさまらない。
まだそんな事を言っているのか?
例えば、上海で軍医をしていた麻生徹男によるこうした証言がある。

一人の慰安婦が脱走したが、軍につかまった。連れ戻すために麻生徹男医師に「引き取り」の命令が降ったという話である。
つまり、慰安婦は嫌がり、逃げようとしたが、軍は逃がさなかったという事である。
まるで牢獄であり、このように隷属・強制させられた女性達はまさに「性奴隷」に他ならない。

1926年の奴隷条約の第1条では「奴隷制度」の定義をこう定めている。
「奴隷制度とは、その者に対して所有権を伴う一部、または全部の機能が拘束されて行う個人の捕捉、取得または処分に関係するあらゆる行為、・・・並びに、一般に奴隷を取引しまたは輸送するすべての行為を含む。」
そして国際刑事裁判所データベースでは「人を性的奴隷状態におくことは、奴隷化することの一形態であり、本人の自己決定権、移動の自由および本人の性的活動に関する事柄に対する決定権の制限を特徴とする。」と書かれている。
つまり、「性奴隷」とは、上記の「奴隷制度」の定義を踏まえ、簡単に言えば「自由な判断を奪い、人身を拘束しながら性行為を行わせる事」であると言えるだろう。
そこで、日本の奴隷制度について簡単な論文を書いてみた。
<日本の奴隷の歴史>
1、我が国の人身売買と奴隷制度の歴史
我が国日本は、古来より奴隷制度を持つ国だった。古代大和朝廷における「夜都古(やつこ)」の時代から、律令制における「公奴婢(くぬひ)」や「私奴婢(しぬひ)」は、小中学校でさえ学ぶのだから知らない人はいないだろう。この時代の農業奴隷は、後の「小作人、水呑百姓」制度へとひきつがれている。
やがて平安時代→鎌倉時代に荘園制度が崩壊する過程で放浪者が続出し、「賎民」が増加し、全人口の4分の1を数えたともいう。貨幣経済が発達する過程で、人身売買も頻繁となる。戦国期には戦乱が続く中で、人身売買が横行し、人買い商人が暗躍する。
『日本奴隷史』(阿部 弘臧)には
と書かれている。
つまり16世紀には、奴隷市場があったという事である。
やがて好色な秀吉、家康により、遊郭が保護され繁栄する中で日本中に、人買いを生業とする女衒の網が張られるようになる。
江戸時代移住の自由もなく土地にしばりつけられ、領主に隷属させられ、「斬り捨て御免」によって生存権さえ握られていた農民たち。さらにその下層の小作人、水呑百姓たちは、彼ら自身が「奴隷」も同然であった。そうした下層の農民たちは極限まで絞りとられたので、蓄えをする事ができず、いざ飢饉が来ると親を捨て、娘、息子を売るようになる。
最近まで我が国には、2割を超える違法な借金利子が存在していた。わずかな借用金が膨大に膨れ上がるシステムである。それはお江戸以来の「貸した側が金利を決める」という習慣であったからだ。江戸時代、生活に困った百姓が地主から借りる借金には高率の利子がつき、「6か月ころがし」と言って証文は半年ごとに書き変えていたという。
こうした中で娘を売らなければならなくなった農民が続出したので、この娘を買い取る女衒の網が張り巡らされていた。関東と東北はお江戸在住の5人の親分が支配していたという(『毎日新聞』明治33年連載の「社会外社会」より)。売り場はいくらでもあった。日本には至るところに遊郭が存在していたからだ。このシステムが明治以降も存在していた事が西口克己の『廓』に書いてある。農村に飢饉が訪れると彼らは、玉探しに農村に乗り込み、娘をニ足三文に買いたたいたのである。
明治維新後の富国化政策の中で農民としてあぶれた人々は工場労働者として都会に貧民窟を形成して生活するようになったが、そこでも人身売買は横行していた。
「これら貧民窟の娘らを資本として食うている悪周旋業者と親方は娘を世話するという名目の下にほとんど数限りない、堕落した手段を弄しているのである。娘を連れて行くのも、旅費と支度金にほとんど身売りの半分以上もかかるような計算書を送ってくるのである。」
こうした女衒のやり方は、宮尾登美子の小説『寒椿』にも書かれている。
日本の遊郭はそれ自体が、人身売買を伴い、人の自由を奪いとった「奴隷制度」の一種に他ならない。廊清会が内相あての陳述書に書いたようにまさに「前借金の名の下に人身売買、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」に他ならないのである。
2、人身売買を禁じる法律
明治政府には、江戸時代を通して培われた慣習をそのまま続けようとする力と新たに開国によって取得した価値観に従おうとする力がせめぎあっていた。明治政府は、人身売買を犯罪とみなし厳罰をもって臨む姿勢を「新律綱領」に示していた。
新律綱領・賊盗律:略売人==「凡人を略売して娼妓としたる者は成否を論ぜず、皆流2等。妻妾・奴婢とする者は、徒2年半」
さらに1872年、マリア・ルーズ号事件でペルー側に「日本の娼妓も奴隷ではないか」と指摘されたのをきっかけに「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放」、「借金は全て帳消し」とする〈芸娼妓解放令〉が出された。
(『法令全書』明治5年ノ1p200,201)
しかし、解放の歴史もここまでと言えるだろう。
再びかつての慣習に戻ろうとする反動の力が働き始める。
北海道開拓使により、翌1873年には「貸座敷制度」が実施され始め、やがて全国でこの「貸座敷制度」が踏襲されるようになる。所定の手続きをすれば「座敷を借りる」という形式を保って遊郭は存続し、〈芸娼妓解放令〉は瞬く間に有名無実のものとされてしまった。芸者、遊郭遊び好きの政府の要人たちが主導権を握る中、1880年7月17日に公布された刑法(旧刑法)では、人身売買に関する法的規制は大きく後退し、成人に対する人身売買を罰する条文が存在しなかった。(石井紫郎・水林彪『日本近代思想体系』7巻「法と秩序」より)
この刑法(旧刑法)では、他人を売るよりも我が子孫を売る方がはるかに罪が軽くなっている(牧英正『近代日本の人身売買の系譜』P378~P381)。牧英正によれば、「現今では、往古のような単純な人身売買という形式をとる事は稀であり、いわいる前借金というような形式をとり、これにより相手の身柄に甚だしい拘束を加えるような場合を一般に人身売買という」と書いている。(牧英正『近代日本の人身売買の系譜』P5)
1890年に山県有朋内閣が提出した「新刑法案」にも人身売買を明確に処罰する規定がなく(『第一回帝国議会衆議院議事速記録』51号P813)、それゆえに紡績工場などの女性労働者もまた、前借金の名の下で人身売買的習慣が続いていた(横山源之助『日本之下層社会』1899、この著作は『横山源之助全集』一巻に所集されている。P101~103)
1900年、無類の女好き、遊郭・芸者遊びが大好きだった伊藤博文が政権を握り(第4次)、「娼妓取締規則」が公布され、全国一律18歳以上の女性を娼妓とすることが合法化する。これで近代公娼制度の完成である。1901年、伊藤内閣は第15回帝国議会に刑法改正案を提出し、父母の承諾があれば未成年の拐取を許し、人身売買を許容している。この刑法では「人を拐取する罪」として「父母または其他の監督者の承諾なくして未成年を拐取したる者は5年以下の懲役に処す・・・」(第263条)と言う。つまり、親が子供を売る事が合法化されたのである。こうして女衒たちは、証書をきちんと造り、親権者の印鑑を押させる事にやっきになる。しかしこれは、証文が物を言った江戸時代とそれほど変わった訳ではないだろう。さらには実親から子供を買い取り、養子・養女にして親権を得てそれから、遊郭に売り飛ばすという行動がなされるようになる。
ここで押さえておきたいのは、この我が子の人身売買を合法化した刑法においても、第263条で「偽計または威力を用い父母またはその他の監督者の承諾を得て拐取したるもの同じ(5年以下の刑)」としており、また第267条では、「国外に移送する目的をもって人を売買すること」を禁止している事である。
(『刑法改正案』(「明治三四年 公文雑纂」巻一、国立公文書館)
伊藤内閣が提出したこの新刑法は、数回の審議を経て「国外移送罪」のみを強調しながら、1908年10月1日より施行された。
牧英正によれば「芸娼妓のみならず、製糸・紡績工場の女性労働者、あるいは農漁村の労働者として、前借金の下に、「人身売買的慣行は枚挙のいとまがないほど続けられた」のである(牧英正『近代日本の人身売買の系譜』P382)(藤野豊『戦後日本の人身売買』P21)
こうして振り返って見れば分かるように、明治維新直後の「文明開化の音がした」時期に、「人身売買を伴う事実上の奴隷制度」を一時的に撤廃する意向を明治政府は見せていたが、結局は大きく後退し、人身売買を撤廃する事が無かったのである。こうした風土が後の慰安婦の土壌となったのであった。
3、慰安婦は「籠の鳥」であった
http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63581579.html
実際に歩哨が立っていた慰安所もあり、ほとんどの慰安所では、慰安婦の外出は、決められた範囲内以外は禁止されていた。フィリピンのイロイロ市の慰安所では、慰安婦の散歩は朝の8時から10時までと決められており、それ以外の時間の外出は厳禁されていた。さらに逃亡防止のために散歩地域も狭い「公園内」と指定されていた。
江戸時代の公娼制度下の吉原遊郭では、出入り口は厳重に閉じられ、役人、やくざものや用心棒がその門を守っていた。万一逃亡すると厳罰が待っていた。
やがて江戸時代が終ったが、明治以降の公娼制度の下で、業者は売春婦の外出を制限し、逃亡防止のために用心棒を雇っていた。こうして奴隷状態にしていたのである。
それと同じように軍慰安婦においても、大きな慰安所町では、憲兵たちが巡回に来て、逃亡を防いでいたのである。元慰安婦の洪愛珍さんは、逃亡したが、憲兵隊につかまってしまい連れ戻されたという。(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P54より)
騙されて慰安婦にさせられた元慰安婦の宋神道さんも、何度も逃亡を試みているが、所持金はなく、中国語もわからず、逃亡を諦めた・・・と言うが、その小さな身体には、慰安を拒否したという理由で、軍人につけられた傷が無数に刻まれている。また、畳に軍刀を突きつけ、思い通りにさせようとした軍人もいたことが多くの証言からもわかる。(『従軍慰安婦をめぐる30のうそと真実』P33より)
こうして、日本軍慰安婦の「奴隷制」はあきらかに認められるのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63581579.html
実際に歩哨が立っていた慰安所もあり、ほとんどの慰安所では、慰安婦の外出は、決められた範囲内以外は禁止されていた。フィリピンのイロイロ市の慰安所では、慰安婦の散歩は朝の8時から10時までと決められており、それ以外の時間の外出は厳禁されていた。さらに逃亡防止のために散歩地域も狭い「公園内」と指定されていた。
江戸時代の公娼制度下の吉原遊郭では、出入り口は厳重に閉じられ、役人、やくざものや用心棒がその門を守っていた。万一逃亡すると厳罰が待っていた。
やがて江戸時代が終ったが、明治以降の公娼制度の下で、業者は売春婦の外出を制限し、逃亡防止のために用心棒を雇っていた。こうして奴隷状態にしていたのである。
それと同じように軍慰安婦においても、大きな慰安所町では、憲兵たちが巡回に来て、逃亡を防いでいたのである。元慰安婦の洪愛珍さんは、逃亡したが、憲兵隊につかまってしまい連れ戻されたという。(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P54より)
騙されて慰安婦にさせられた元慰安婦の宋神道さんも、何度も逃亡を試みているが、所持金はなく、中国語もわからず、逃亡を諦めた・・・と言うが、その小さな身体には、慰安を拒否したという理由で、軍人につけられた傷が無数に刻まれている。また、畳に軍刀を突きつけ、思い通りにさせようとした軍人もいたことが多くの証言からもわかる。(『従軍慰安婦をめぐる30のうそと真実』P33より)
こうして、日本軍慰安婦の「奴隷制」はあきらかに認められるのである。
*【資料】 ■積慶里入口の門には憲兵と歩哨が立っていた。(長沢健一『漢口慰安所』P54~60』■洪愛珍(ホンエジン)さんは 漢口の慰安所から逃げ出したが、憲兵隊に捕まった。(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P54)■「私達がどこかへでかけようとすると歩哨が尋問するのでした」(『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』P48) ■ ■ 「朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。…… 「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。」 『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年 須藤友三郎『インドネシアで見た侵略戦争の実態』北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所、
軍は慰安所開設にあたって将兵、業者、慰安婦に対する規則を定めたが、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の慰安所規定では散歩する場所や時間も8時から10時までと決められていた。(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』P325~326)ペポンギさんの証言では沖縄では散歩は海岸方向だけに限定され、宋神道さんの証言では武昌の慰安所では、月に一度しか休みがなく、その休日も外出は禁止されていた。