あの戦争 児玉清が語った出来事
P37~64
軍国少年だったが・・・
昭和9年生まれ TVでおなじみの児玉清は、敗戦時には小学生6年だった。
「軍国少年でついこの前まで鬼畜米英と思っていたんだけど、目の前でみるとやっぱり圧倒的なんです。輝いてみえてしまう。」(P43)
「きっとみんなそうだったんでしょう。その後ジープの歌が流行りました。・・・」
この歌というのは鈴村一郎の歌謡曲「ジープは走る」である。おそらくこの時期、同じようなパラダイムシフトを人々は体験したのだろう。この本の中でピアニスト館野泉も「敗戦後のものすごく自由で開放された雰囲気」と述べている。また雰囲気が変わりはじめたのは1950年ころだったという。館野はピアノをやっていたため、戦争中は「この非常時に西洋音楽なんてやって」と家に泥を投げ込まれた体験を話している。(P75)もちろん、そんな陰湿なことをする輩は多くはないだろうが、最近の朝鮮学校の娘のチマを電車でカッターで切り裂いたという陰湿な事件とよく似た匂いがする。
先見の明のない人を信用する愚かしさ
児玉は、思い出の中で
「この戦争は負けるぞ」と言ってた先生もいたという(P46)
田辺先生というその賢い人は疎開先で敗戦を予告していたが、少年児玉たちは「なんて女々しいんだ」「非国民だ」と反発し、体育会系の「行け、行け」「日本は神国なんだから負けるわけがない」と言っている先生が溌剌としいい先生だと思っていた(p47)、という。
なるほど、世の中というものはまるで先見の明のない人間でも信用されてしまうことがある。
現在の安部政権やその周辺に人々、その支持者たちを見ているとよくわかる。まるで信用できないのだが、自称アイコクシャを中心に応援団が組織されている。
それはともかく
田辺先生は敗戦に呆然としている児玉少年たちのこう述べたという。
「これからは、君たちが自分の夢を追うことができる時代が来るよ」
田辺先生をそのときは敗北主義だと思っていた児玉がその冷静さと見識に気づくのはもっと大人になってからだったという。(P47)
蔓延するイジメ社会
児玉少年が疎開した先では、陰湿ないじめが待っていた。
天皇制=国体思想は日本人は天皇を頂点とする家族だと歌っていたが、それはもちろん、世を欺くデタラメであり、実際は家族的世界などまったくなく、命じる者と命令を聞く者、支配する者と支配される者がくっきりと別れる修羅の世界であった。
そのため、戦時中こそ大人の世界でも子供の世界でも、”イジメ”が蔓延し、B29の落とす爆弾より醜く、救いがたい世の中が生まれていた。それは地獄がふたを開けていたのである。地獄は人を通して、自らを顕すからだ。そういうわけで戦争中、疎開体験中地獄を味わう体験談も多くある。
さてイジメだが、
「Nくんという身体の大きな子がいましてね。自分が疎開先でボスとして君臨するためにボスになる可能性があるような、相撲が強くて友達が多いやつを何人か血祭りにあげようとした」(P58)
「・・・・ちょっとここでは言えないようなことをさせて、自分に忠誠を誓わせるんです。・・・そのやり方が残酷というか狡知にたけているというか(P59)
「今度は徹底的に仲間はずれにするわけです」(P59)
この孤独が演劇の芽生えだというのだから、人生はわからないものだ。
このインタビューの7ヶ月後、児玉清は77歳で急逝したという。
言いたいことはすべて言われただろうか?
伝えたいことは全て伝えられたであろうか?
最近、あの戦争を語ってから逝かれる人が多い。胸に残る真実を全て語れば、それが成仏の基となる。