安秉直教授の反駁文ー今日発売の「週刊金曜日」掲載
記事は安教授の『文春』記事批判がそのまま掲載されており、大高未貴の「慰安婦「調査担当」全面自供!」(4月10日号)が「右派メディアによる」慰安婦供述を「「信憑性がない」として宣伝するための歪曲記事である」と述べ、「文春」に訂正報道を勧告している。
まあ、当然と言えば当然。
実は5月の12日には、安教授による週刊「文春」への抗議がなされていたのだが、結局「文春」は無視した。
その過程をジャマする訳には行かないので、ブログでその後の経過を発表するのは控えていたのだが。
大高氏が桜CHで「(安教授の反駁文は)山下英愛の捏造だと確信している」と言いながら、すばやく「吉田清治」の解説に話題を移行させて幕引きを謀ったのは、抗議文が送られたのを知っていたからだろう。こころなしか顔が引きつっていた。しかし、言うまでもない話しだが、安教授の反駁文は安教授自身が書いたものだったのである。「山下氏の捏造」と述べた部分自体が、名誉棄損ではないだろうか?
今頃、大高氏たちは、どう対応するか、相談している頃だろう。
どうするのだろう?
ただでさえ、海外に味方が少ない右派にとってこれは痛い。安教授と言えばニュ-ライト(韓国右派)の重鎮である。今後、ニューライトの研究者の多くが右習えするだろう。
インタビュー記事を安教授の確認も無いまま、掲載するというやり方を強行したのが、最初から間違いなのだ。素直に訂正・謝罪記事を出すことをお薦めする。
安教授はまるで右派と決別するように、「派遣軍の動員計画に応える現地の警官あるいは憲兵隊の協力によって女子愛国奉仕隊などの名目で徴集されたという事実」「703人を徴集した際、朝鮮司令部の憲兵隊が協力したという事例もある」とまで述べている。(*この部分は、『日本軍慰安婦管理人の日記』によるようだ)

渡部睦美氏のインタビュー記事
文春・大高未貴氏による
「でっちあげ”報道を韓国人教授が告発」
安教授の反駁文記事の前頁には、渡部睦美氏による安教授へのインタビュー記事が掲載されている。
これは爆笑ものである。しかし同時に泣けて来る。
安教授のセリフとして「みなさん、とても悪い人ですね」とサブに書かれている。
確かに・・・
安教授は日本のネトウヨと接したことは無いかも知れないが、だいたいネトウヨはこういう感じで捏造ばかりしている。造り話をしても自分の主張を正当化するのは、彼らの性癖である。そしてそれを謝罪したりは決してしないのも彼らの共有する性質である。
安教授はこう言う。
「そもそも・・・実質的な『調査失敗』を認めただなんてまったくの捏造です。」
「そもそもこう言う趣旨の発言はしていない」
そして「記事の内容を知り、驚きと怒りで頭が真っ白になった」と話している。
大高未貴氏は「鈴木美貴」の名で安教授に会ったという。本名だろうか?名刺にも「鈴木美貴」の名前が書かれていた。
大高氏は『文春』に掲載するとは一言も言わなかった。(発言や写真は無断で使われている)
安氏は、大高氏と『文春』に動画の配信停止や記事への反論の掲載を求めたが、要求はいまだに拒否されたままである。安氏はつぶやいた。「みなさんとても悪い人ですね」
泣けてくるよね。
日本人として恥ずかしすぎる!
も面白い。
あの藤岡氏が論争ねえ~
それから
「慰安婦」問題の基礎知識 川田文子
Q&A方式
「『朝日』叩き」異常 「誤報」が問題の本質ではない 梁澄子
「安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授の最近の研究」
安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授(韓国経済史)=写真=は6日、旧日本軍の慰安所で管理人をしていた朝鮮人が書いた日記を公開した。この日記は、これまで詳細が明らかになっていなかった従軍慰安婦の動員や慰安所の運営の実態を、かなり明らかにしてくれる資料だ。
日記の筆者(1905-79)は、1940年代になって統制経済が強化され経済的に困窮したため、42年7月、従軍慰安婦を募集してビルマ(当時)に向かう義理のきょうだいと合流した。この筆者がビルマやシンガポールで書き残した日記には、日本軍慰安所の経営実態や従軍慰安婦の生活の様子が描かれている。ただし、42年の分の日記が紛失しているため、慰安婦の募集過程に関する内容が抜け落ちているところが惜しい。
日記はハングル文字と漢字を主に用い、日本語も混じっている。文章は韓国語体だが漢文として読まなければ意味が通じない部分も多く、現代語訳が必要だ。
日記を通して明らかになった主な事実は、日本軍が従軍慰安婦を複数回にわたって組織的に動員していたということ。42年5月、日本軍の南方派遣軍司令部は、朝鮮軍司令部に対し慰安婦募集に関する協力を要請した。朝鮮軍司令部が選定した慰安所業者らは「多額の金を稼げる」という甘い言葉や、まとまった額の金をあらかじめ前借金として渡すなどして、慰安婦を募集した。
募集された慰安婦は、7月10日に業者・管理人と共に釜山港を出発した。「一昨年慰安隊が釜山を出発したとき、第4次慰安団の団長として来た津村氏」(44年4月6日)という日記の記述から、このほかにも日本軍が朝鮮で数度にわたり慰安団を組織したことが分かる。
従軍慰安婦の一部は、数百円の前借金を受け取った。その金は軍から出たというのが、研究者らの分析だ。日記には、これを裏付ける記述も見られる。慰安所業者らは、慰安所を簡単に譲渡し、新たな業者は特に負担もなくこれを引き継いだ。日記の筆者もまた、義理のきょうだいが事故で死亡した後、このきょうだいが運営していた慰安所への縁故権を主張しなかった。これは、事実上軍が慰安所を所有しており、業者は経営のみを担当していたからだ。
また日記は、慰安所が日本軍の完全統制下で運営されていたことも示している。日記に登場する慰安所は、ビルマに27カ所、シンガポールに10カ所。各慰安所は「航空隊慰安所」「兵站(へいたん=戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの)管理慰安所」のように特定の部隊に所属しており、収入報告書・営業日報などの報告書を定期的に所属部隊へ提出した。「(ラングーン〈現在のヤンゴン〉の)インセンにいる高部隊、すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が兵站管理に移譲された」(43年7月19日)「村山氏が経営する慰安所『いちふじ楼』が兵站管理になり」(7月20日)と日記に記述されているように、所属部隊が変更されるケースもあった。
さらに、慰安所は軍の命令によって移動した。「55師団から、慰安所をマンダレー近辺のイエウという場所に移転せよという命令があり」(43年3月10日)、「ペグーの慰安所『乙女亭』、『文楽館』、将校クラブなど3、4の慰安所は、今回アキャブ地方に移動した」(4月15日)、「『カナガワ』氏は、慰安所移動説があると言って軍司令部で調べてみた」(8月6日)という日記の記述が、これを証明している。
慰安婦暮らしをやめた人が、再度連れてこられることもあった。「以前村山氏の慰安所で慰安婦をしていて、夫婦生活を送るために出ていった春代と弘子は、今回兵站の命令で再び慰安婦として『きんせん館』に来ることになった」(43年7月29日)という日記の記述が、このことを物語っている。
日記で明らかになったこうした事実は「民間業者が従軍慰安婦を募集し、慰安所業者が営業のために軍部隊についていった」という一部の主張が事実ではないことを示している。
安秉直名誉教授は「従軍慰安婦は、徴用・徴兵・勤労挺身(ていしん)隊と同じく、戦争の本格化により日本が戦時動員体制の一つとして国家的レベルで強行したこと。しかも慰安婦は、募集時に自分たちがやることをきちんと説明されず、人身売買に近い手法が利用されたという点で『広義の強制動員』と見ても差し支えない」と語った。
(朝鮮日報)
日記の筆者(1905-79)は、1940年代になって統制経済が強化され経済的に困窮したため、42年7月、従軍慰安婦を募集してビルマ(当時)に向かう義理のきょうだいと合流した。この筆者がビルマやシンガポールで書き残した日記には、日本軍慰安所の経営実態や従軍慰安婦の生活の様子が描かれている。ただし、42年の分の日記が紛失しているため、慰安婦の募集過程に関する内容が抜け落ちているところが惜しい。
日記はハングル文字と漢字を主に用い、日本語も混じっている。文章は韓国語体だが漢文として読まなければ意味が通じない部分も多く、現代語訳が必要だ。
日記を通して明らかになった主な事実は、日本軍が従軍慰安婦を複数回にわたって組織的に動員していたということ。42年5月、日本軍の南方派遣軍司令部は、朝鮮軍司令部に対し慰安婦募集に関する協力を要請した。朝鮮軍司令部が選定した慰安所業者らは「多額の金を稼げる」という甘い言葉や、まとまった額の金をあらかじめ前借金として渡すなどして、慰安婦を募集した。
募集された慰安婦は、7月10日に業者・管理人と共に釜山港を出発した。「一昨年慰安隊が釜山を出発したとき、第4次慰安団の団長として来た津村氏」(44年4月6日)という日記の記述から、このほかにも日本軍が朝鮮で数度にわたり慰安団を組織したことが分かる。
従軍慰安婦の一部は、数百円の前借金を受け取った。その金は軍から出たというのが、研究者らの分析だ。日記には、これを裏付ける記述も見られる。慰安所業者らは、慰安所を簡単に譲渡し、新たな業者は特に負担もなくこれを引き継いだ。日記の筆者もまた、義理のきょうだいが事故で死亡した後、このきょうだいが運営していた慰安所への縁故権を主張しなかった。これは、事実上軍が慰安所を所有しており、業者は経営のみを担当していたからだ。
また日記は、慰安所が日本軍の完全統制下で運営されていたことも示している。日記に登場する慰安所は、ビルマに27カ所、シンガポールに10カ所。各慰安所は「航空隊慰安所」「兵站(へいたん=戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの)管理慰安所」のように特定の部隊に所属しており、収入報告書・営業日報などの報告書を定期的に所属部隊へ提出した。「(ラングーン〈現在のヤンゴン〉の)インセンにいる高部隊、すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が兵站管理に移譲された」(43年7月19日)「村山氏が経営する慰安所『いちふじ楼』が兵站管理になり」(7月20日)と日記に記述されているように、所属部隊が変更されるケースもあった。
さらに、慰安所は軍の命令によって移動した。「55師団から、慰安所をマンダレー近辺のイエウという場所に移転せよという命令があり」(43年3月10日)、「ペグーの慰安所『乙女亭』、『文楽館』、将校クラブなど3、4の慰安所は、今回アキャブ地方に移動した」(4月15日)、「『カナガワ』氏は、慰安所移動説があると言って軍司令部で調べてみた」(8月6日)という日記の記述が、これを証明している。
慰安婦暮らしをやめた人が、再度連れてこられることもあった。「以前村山氏の慰安所で慰安婦をしていて、夫婦生活を送るために出ていった春代と弘子は、今回兵站の命令で再び慰安婦として『きんせん館』に来ることになった」(43年7月29日)という日記の記述が、このことを物語っている。
日記で明らかになったこうした事実は「民間業者が従軍慰安婦を募集し、慰安所業者が営業のために軍部隊についていった」という一部の主張が事実ではないことを示している。
安秉直名誉教授は「従軍慰安婦は、徴用・徴兵・勤労挺身(ていしん)隊と同じく、戦争の本格化により日本が戦時動員体制の一つとして国家的レベルで強行したこと。しかも慰安婦は、募集時に自分たちがやることをきちんと説明されず、人身売買に近い手法が利用されたという点で『広義の強制動員』と見ても差し支えない」と語った。
(朝鮮日報)