河野談話を守る会のブログ2

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【強姦」から見た大東亜戦争史】”マワし”が辛かったという慰安婦たちの話  (前半)

        1、「マワし」とは集団強姦の事である


「マワす」という言葉は集団強姦を意味する隠語である。
悪霊たちはこういう風に使う。
「あの女、マワしちまおうぜ」

2003年に発覚した組織的集団強姦「スーパーフリー」事件の主犯である和田被告は、第56回公判で、明大サークルでも行われているから、「スーフリでもマワしをやりましょうよ」と提案されたことを陳述している。

「マワす」
現代でも生きている言葉である。

ところで、この言葉どこから生まれたのだろうか?

18世紀末から19世紀初頭の世事を記録している『世事見聞録』武陽陰士)は「遊郭」についてこう書いている。

「廻しといって5人でも10人でも客のあり次第に廻して相手させる。年いたらぬ者にむりな勤めをさせ、色欲強請な大人の相手をさせ、病気も構わずせめ遣う・・・」

つまり、「集団強姦=マワし」の語源は江戸時代の遊郭である。人権も何もない時代。女郎を道具としか見ない金儲け主義の遊郭業者たちが、一晩に何人もの相手をさせようとした。・・・・これが「マワし」である。
「マワし」は「集団強姦システム」に他ならない。

どの国にも「売春婦」はいた。最近そんな理屈を述べていた人たちがいた。
しかし大抵の国の自由売春では、おおむね一日に一人と相場が決まっていた。もちろん現代でも犯罪組織ガラミで売春させる場合には”廻し”がされる事もあるだろうが、日本軍は犯罪組織ではないだろう。いや犯罪組織みたいなものだったかも知れない。司馬遼太郎は「日本軍は匪賊のようなもの・・」と述べていたが、強盗、強姦・殺戮・・・たいていの事はやっていたからである。

それはともかく、後で出てくるが、我が国でも沖縄の辻遊郭のジュリたちは、一日に一人の相手をするのが伝統であった。ところが本土では「マワし」が蔓延していた。古代ローマ帝国の奴隷売春宿じゃあるまいし、日本の遊郭では明治以降もこの「集団強姦」が続いていたのである。



          2、詰めかける軍人

歌舞伎の「助六由縁江戸桜」に「間夫がいなけりゃ遊女は闇」という。遊郭は闇の世界の存在であった。

しかし、それでも「慰安所」よりはましだったのだ。
慰安所はさらにひどく軍人がつめかけ、こんな感じだったのだという。

和気シクルシイ 『戦場の狗』  筑摩 1993 
1941,42
著者は士官学校出でもなく、大学出でもないのに、松岡洋右の私的諜報員だったがゆえに「将校」であった。

「その夜、私たちは部隊と共に行動している大勢の女性を見た。日本人、朝鮮人、中国人など服装の違いで分かる。女たちは話し合うでもなく、黙りこくって・・・・一様に明るさがなく、暗い顔をしていた。」
「・・・扉の外にはまだ20人ほどが順番を待っていた。これはもう輪姦に等しい。」
 

「扉の外にはまだ20人ほどが順番を待っていた。これはもう輪姦に等しい」・・・なのである。
慰安所には、軍人が詰めかけ、しばしばごったがえした。

宮部十三 『ビルマ最前線』 1980
 
マラッカ 
1943
 
「・・・何万という兵隊に対して僅かな慰安所では日曜日ともなればその門前には兵隊の列が続く」

岡本信男  『ラバウルの落日』 1975
 
 
1943
 
「・・・・朝鮮の女がほとんどで一部沖縄の女ということだった」
 
「入り口の外にはずらりと兵たちが列をつくって、順番を待っているのには度肝を抜かれた」


「・・・ずらりと兵たちが列をつくって、順番を待っている」のだ。

竹井慶有 『南の島に下駄はいて』 1992
水上偵察機
1944 
 
建物の出入り口はなく、代わりに、荒むしろが一枚垂れ下がっているだけの間取りで、この荒むしろが内部と外部の境界を形つくっている。
「何事ですか?」と、並んでいる兵隊にたずねたら、「ここはラバウル慰安所だ。毎日こんなに繁盛してますよ」と教えてくれた。

こうしてたくさんの相手をしなければならない事に順応しようとした女性もいただろうし、場合によっては稼ぎの少ない女性には、罰として「暴力」や「食事抜き」などの報復がなされたかもしれない。現代の風俗産業でも、女性のノルマを稼し、売上を上げようとするのは日本ではよくある事である。





         3、これは決して楽しい事ではなかった。できれば逃げ出したかったのである。





総山孝雄氏の『南海のあけぼの』には、募集して集めた女性たちを縛って、強姦するシーンが出て来る。ここで集められた女性たちは、元々売春婦であり、「英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい」・・という。

自由売春ではおおむねそんな感じになるのだが、慰安所ではそういうわけにはいかない。後から後から、兵隊が押し寄せて来るからだ。
そこで、嫌がっても縛りつけて強姦している。

『南海のあけぼの』

総山孝雄少尉(近衛師団)のシンガポールでの体験

一九四二年

「軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。

・・・・(略)・・・・・

ところが慰安所へ着いてみると、彼女らが想像もしていなかった激務が待ち受けていた。昨年の一二月初めに仏印を発ってより、三ヵ月近くも溜りに溜った日本軍の兵士が、一度にどっと押し寄せてきたからである。・・・(中略)・・・英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂って悲鳴を上げてしまった。四、五人すますと、

   「もうだめです。体が続かない」

  と前を押さえしゃがみ込んでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と仕切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、止むを得ず女性の手足を寝台に縛り付け、

   「さあどうぞ」
と戸をあけた。

「女性の手足を寝台に縛り付け」てやっておきながら慰安婦制度が「強制売春ではない」という意見が成立するとは到底思えないが、それはともかくもともと「英軍を相手」をしていた女性たちでさえ、4,5人で悲鳴をあげているという事実を注視しなければならない。
どこの国の軍隊にも基地の周りには将兵が落とすお金を目当てにした売春婦が詰めかけた。最近右派が述べている韓国の「基地村」もそういう形である。しかし、これは日本軍慰安婦とはまるで異なっている。

沖縄「慰安婦」問題の研究で知られる古賀徳子は、軍が沖縄に慰安所を造り始めた1944年以降、「慰安婦」が不足していた第32軍の副官が、辻(チージ)の遊郭の業者を集めて協力を要請したという。
その際に以下のようなことが起こったと述べている。

「・・・一日に数多くの相手を強制される慰安所の実態が知られると、
ジュリは廃業願いを持って那覇警察署に殺到した。」と書いている。
(古賀徳子「沖縄戦における日本軍「慰安婦」制度の展開」『戦争責任研究』63号、2009春P67)

一日に一人だけ相手にすれば良かった辻遊郭のジュリたちにすれば、一日に数人から数十人を相手にする「慰安所」は耐えがたいものだったに違いない。

日本人元慰安婦もこう述べている。

その頃(注:ミンダナオ島のタバオにいた時)は、現役の若い兵隊さんばかりで
一日7、8人が限度、楽じゃないけど体を悪くすることはありませんでした。半年
ぐらい働いて、 去年の10月末にこのラボウルに来たんです。ここでは、大きな
部隊(38師団<名古屋>)の専属になって、とても忙しかったんです。毎日朝
から12、3人もの兵隊さんの相手をさせられてお金にはなりましたけど、辛いん
ですよ。それで、辛いというと、「最前線の女は、一日30人もの相手をするの
に、お前たちはなんだ」と叱られるのです。でも30人なんてとても、せいぜい
20人がやっと、1週間も続いたら体を悪くしますよ。

青年将校慰安婦、みやま書房、1986、66ページ)

7,8人が限度で、20人が一週間も続けば、体を悪くする、というのだ。


アンボン島の主計将校の眼から見ると
 海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会企画編集『滄溟』 1983
所収312Pー[坂部康正氏の手記]
 
坂部康正氏は、海軍第25特別根拠地隊司令部付きの主計将校
1945

日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収用された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらせられるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシア若い女性の声を私も何度も聞いて暗い気持ちになったものだ。
果たして敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上って処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。
 

不特定多数の相手をさせられて泣き叫ぶ声がしていたというのだ。
嫌々ながら、やらされていたのである。あたりまえだ。たいていの女性にとっては10人も相手にするのはそれだけで苦しい事だったのだ。
(つづく)