河野談話を守る会のブログ2

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悪事の証拠書類を焼却した大日本帝国

 
 
 
で一応書いた事だが、もう一度整理しなおしておこう。
 
1945年8月15日の敗戦直後、大日本帝国戦争犯罪を追及される事を恐れて、公文資料の証拠隠滅を行った。その命令は日本政府から、口頭で全省庁、占領地の海軍や陸軍、日本国内の公的機関、朝鮮総督府台湾総督府・・・などに伝令され、あらゆるところで、証拠文献が焼却されたのである。
 
当時の内務省財政課事務官(課長)だった 奥野誠亮(元国土庁長官 はこう述べている


 公文書は焼却するとかといった事柄が決定となり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通して下部に通達する、海軍は海軍の系統を通して下部に通達する、内政関係は地方総監、府県知事、市町村長の系統で通知するということになりました。」

「15日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから、1部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようという事で、小林(与三次)さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の4人が、地域を分担して出かけたのです。」

自治大学校史料編集室編 『山崎内務大臣時代を語る座談会』 より)

 
イメージ 2

   (読売新聞2015年08月11日「占領前文書焼却を指示」http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
 
 
これは証拠隠滅罪(刑法104条)および公文書毀棄罪(刑法258条)に違反している。
 

防衛省もホームページでこう述べている。http://www.nids.go.jp/military_archives/
 
防衛研究所 史料閲覧室(防衛省のホームページ

戦史史料の紹介

防衛研究所では、戦史の調査研究と戦史の編さんを行うために、陸海軍にかかわる史料の収集を行いました。史料の大半は終戦時に焼却され、あるいは戦後の混乱により散逸してしまいました。焼却をまぬがれたものは米軍に押収され、米国国務省公文書部の保管するところとなりましたが、長い外交交渉の末、昭和33年4月にようやく我が国に返還され、その大部分が防衛研究所に所蔵されています。

(ここで述べている米国から返還された書類の中にはいまだに公開されてないものもある。防衛研究所が公開していない資料は約7000点だといわれている)
 
 主語を省ける日本語の特性を活かして、誰が「終戦時に焼却」したかを書いていない。まるで「台風が来た」という自然現象と同じように書いているが、この犯罪は国家的になされたのである。そして市町村の公的機関までこれに係わっている。
日本の公的機関のほとんどがこの証拠隠滅に関与したのである

 

  • 2012年10月7日(日)25:20~(8日01:20~) 日本テレビ系列 「135枚の証言 遺された戦争ポスター」
戦時中、国民に戦意高揚を図るため製作された135枚の戦争ポスターが、長野県阿智村に残されている。終戦後、国はGHQの検閲を逃れるため、それらの焼却処分を命じた。しかし、旧会地村(阿智村)の原弘平村長(享年59)は、命令に背いてポスターを自宅の土蔵にしまいこんだ。戦地から生きて帰ってきた三男・好文さん(90)だけに、その存在を告げていた。「いつか役に立つだろう…」と。半世紀以上もの間、光の届かない蔵に眠り続けた135枚。その一枚一枚からは、かつて日本が突き進んだ戦争への道のりが浮かび上がってくる。取材で見つかった原村長の日記に綴られていたのは、反戦への思いだった。そして今年、村の高校生が、ポスターが語る戦争を学ぼうと動き始めた。

 
焼かれた大量の行政文書(証拠書類)

朝鮮総督府の臨時雇いであった長田かな子は、1945年8月15日、「玉音放送」を聞いた後、総督府の「中央ドーム真下」の部屋に戻って呆然としていた。そこへ「本課から職員が来て、「燃やして燃やして」とせっかちにいう。気がつくと、庁舎の各階の窓からポンポンと書類を投げ下ろし、油をかけて焼却している。抜けるような青空に、無数の灰が粉雪のように舞った。黒い煙が太く立ちのぼった。誰も無言で、ただ機械的に書類を中庭に投げおろした」と記している。こうして敗戦の詔勅の放送と同時に、重要書類の焼却が始まった。

(長田かな子「45年8月15日」 『季刊三千里』1982年秋号より【日韓歴史共通教材日韓交流の歴史 先史から現代まで】P258)

これは朝鮮総督府の証拠隠滅の証言だが、よっぽど都合の悪いものがあったのだろう。
 
慰安婦関係資料も焼却している。↓

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P357-360「備考欄」に記載。
  ↓
敗戦後、オランダ軍検察官の命令で慰安所の所在地、慰安婦人数等について管理責任者に報告を求めたインドネシア駐留日本軍民政担当軍人(復員班長)から。
宛先は「第二軍高級副官殿。

  ↓
「責任者■関係者ノ大部分ハ既ニ日本ニ■還シ又当時ノ書類ハ一切焼却シタル■以テ記憶セル事項ヲ記載セルモノナリ」
と記録している。
こうして慰安婦記録を闇から闇へと葬り去ろうとしたのである。



当時、警視庁管下に勤労動員署があったが、そこでも動員関係の極秘資料を焼却している。


昭和20年、東京。
「戦争が日ましに激しくなってきた昭和18年から19年にかけて、当時、私は青梅勤労動員署の庶務課長兼労政課長の職についていた」「当時の勤労動員署は国民徴用令の関連で、警視庁管下」「陛下の終戦を告げられた放送があった日から3日目、8月18日GHQの情報が入り、警視庁勤労部長の緊急指示で、動員関係の極秘資料を、動員署裏庭で焼却した」

       (辺見じゅん
『私たちの戦争体験』深夜叢書社、1985、 (p87~p88) 、福島正夫「青梅勤労動員署にいた私」)





そこで歴史家たちは、こう述べている。
 

戦犯裁判の証拠にされるのを恐れた日本政府とくに陸海軍は、終戦の日から「公文書は破棄すべからず」との連合軍指令が届くまでの数日間に多量の機密文書を焼却、そのため霞ヶ関の空は暗くなったと言われる。
       (秦郁彦 昭和史の謎を追う[下]』 p140)

 
日本政府及びにその行政機構、軍事機構は、ポツダム宣言を受け入れると決定したあと、すぐに国家機密に関わる資料や文書の焼却を決めている。昭和20年8月14日の夜から15日の朝にかけて、東京永田町の中央官庁からは機密文書を焼却する煙が絶えなかったという。また外地に広がる軍事機構でも焼却を急いだ。そのため以後の昭和史研究は文書や資料で裏付けられた史実よりも、関係者の記憶や証言に頼る事が多くならざるを得なかった。それでもわずかに残された記憶文書と関係者の証言によって、大まかな「事実」は判明して来ている。

     (保阪正康『検証・昭和史の焦点』182)
 
 

もう一つは、日本軍や政府の重要な資料は敗戦直後に大量に処分されてしまったという事です。陸軍の場合、8月14日から文書の焼却がはじまり、すべての部隊にも焼却命令が出されました。警察を管轄していた内務省も同じように文書を焼却するように各府県に指示しています。

林博史、金富子、石出法太『日本軍慰安婦をどう教えるか』林博史の「Q&A」より)



 
2008.4.4 共同配信記事 2008.4.5 各紙に掲載
 
御真影」など焼却命令  旧海軍、戦争責任を意識か 
 英公文書館で暗号解読文書
 
 一九四五年に日本が敗戦受け入れを決定した後、旧海軍が天皇の「御真影(写真)」などを含む重要文書類の焼却を命じた通達内容が4日までに、連合国側が当時、日本の暗号を解読して作成された英公文書で判明した。戦犯訴追に言及したポツダム宣言を念頭に、昭和天皇の責任回避を敗戦決定直後から意識していた可能性をうかがわせる希少な史料という。関東学院大林博史(はやし・ひろふみ)教授(現代史)が英国立公文書館で見つけた。
 研究者によると、当時の日本軍が出した文書類の焼却命令は現在、旧陸軍関係の原文が防衛省防衛研究所にわずかに残っているほか、米国立公文書館で旧陸軍による命令の要約史料として若干見つかっている。旧海軍関係の個別命令が原文に近い形でまとまって確認されたのは、今回が初めてとみられる。
 
 重要文書類の焼却は、四五年八月十四日の閣議決定などを受け、連合国軍進駐までの約二週間に、政府や旧軍が組織的に実施。研究者らは、焼却は戦犯訴追回避が目的で、御真影などの焼却も、天皇と軍の密接な関係を可能な限り隠し、天皇の責任が追及されるのを避けようとした可能性もあると指摘している。
 今回発見されたのは、四五年八月十六日から二十二日までの間に、東南アジアや中国などで連合国側に傍受された通達で、計三十五の関連文書のうち天皇関係は四文書。
 同十七日の第二三特別根拠地隊司令官名の命令は「すべての兵器などから(菊花)紋章を外せ」と指示。第十方面艦隊司令長官は翌十八日に御真影、紋章などを神聖なものとして「最大限の敬意を払い、箱に安置」するよう指示し、敵に渡る恐れがある場合は処分を命じた。さらに、二十一日のスラバヤ第二一通信隊の命令は「御真影は敵の手に渡らないように扱うべし。必要ならば、その場で厳粛に火にささげ、海相に報告せよ」と、焼却を具体的に指示した。
 ほかの焼却命令は、暗号帳や軍艦に関する文書、個人の日記などを細かく指定し、今後の「外交関係に不利となる恐れ」のある文書はすべて焼却するよう繰り返し指示していた。(ロンドン共同)
 
英公文書の要旨
 旧日本海軍の暗号による文書焼却命令を解読して作成された英公文書の要旨は次の通り。
 ▽一九四五年八月十六日、第一七警備隊より
 一、ポツダム会談の××(判読不明)、帝国は以下の手順で機密文書を処分することになった。
 一、現在使用中の暗号帳、機密文書を除き、すべてを完全に焼却せよ。作戦終了後、残りも完全に焼却せよ。命令了解後、この通達も焼却せよ。
 ▽同、大本営海軍部第三部長より(海軍)学校長あて
 一、捕虜や尋問に関する全文書は、敵に口実を与えないように、この通達とともにただちに確実に処分せよ。
 ▽同十七日、海軍より第九特別根拠地隊あて
 一、軍艦旗、機密に関する本、資料、帳面、日記といった作戦の目的を敵に知らせる恐れがあるものはすべて即刻焼却せよ。この電文を内容理解後すぐに焼却せよ。
 ▽同、第二三特別根拠地隊司令官より同隊分遣隊などあて
 一、すべての兵器などから(菊花)紋章を外せ。
 ▽同十八日、クパン分遣隊第六警備隊より
 一、わが国の外交関係に悪影響を与える恐れのあるすべての暗号通信文や文書を焼却し、その旨を報告せよ。
 ▽同、第十方面艦隊司令長官より同艦隊などあて
 一、天皇陛下御真影、勅命、紋章などは最大限の敬意を払い、箱の中に安置せよ。敵の手に渡る恐れがある場合は処分せよ。
 ▽同二十一日、スラバヤ第二一通信隊より第六警備隊などあて
 一、天皇御真影と××(判読不能)は敵の手に渡らないように扱うべし。必要ならば、その場で厳粛に火にささげ、海相に電報で報告せよ。  (ロンドン共同)
原史料なく重要な発見
 
 一橋大大学院の吉田裕(よしだ・ゆたか)教授(近現代史)の話 
 今回の英公文書から、旧海軍が一九四五年八月の段階で、天皇の戦争責任の訴追回避をかなり意識していたのは確かだと思う。焼却命令で、天皇御真影や紋章などに言及した日本語の原史料は残っておらず、今回の発見は重要だ。
 政府は敗戦で、開戦責任まで問われることは理解していた。焼却で天皇と軍の結び付きを弱く見せようとした可能性もある。連合国側が御真影などを入手した場合の日本軍将兵らへの衝撃などを恐れたとも考えられる。
 政府や旧軍の焼却命令は関係者の回想などでは残るが、原文は陸軍関係が若干確認されただけだ。旧海軍の焼却の実態解明は最も遅れている。
 この徹底焼却のため、日本の指導部を裁く東京裁判は証人に依存した裁判となった。対照的にドイツのニュルンベルク裁判は連合国側が押さえた証拠書類に基づく裁判と言われる。(ロンドン共同)
 
 

・・・・・連合軍が各地に進駐するまで、ほぼ2週間の「空白期間」があった。・・・・・(略)・・・・連合国による戦争責任の追及を覚悟した政府と軍部は、閣議決定に基づいて、証拠隠滅のためいっさいの関係書類の焼却を命じた。吉田 裕敗戦前後における公文書の焼却と隠匿」吉田 裕『現代歴史学と戦争責任p136)あきらかなように、陸海軍の中央機関、政府の各省庁、さらに市町村の役所、役場にいたるまで、軍事関係文書の焼却が命ぜられた。一番徹底したのが陸軍で、参謀本部総務課長および陸軍省高級副官から、全陸軍部隊に対して、機密書類焼却を指示する周到ぶりであった。軍部からは新聞社にまで戦争に関する記録写真を焼却すべしという圧力が加えられた。
・・・(略)・・・・                                             (笠原一九司、吉田 裕『現代歴史学南京事件p26)
内務省は戦時中の言論・思想・報道統制の中心になった省庁であるが、それだけに戦後の追及を予想して公文書焼却に一生懸命であった。当時、官房文書課事務官であった大山正は「内務省の文書を全部焼くようにという命令が出まして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるかわからないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で、三日三晩、炎々と夜空を焦がして焼きました。」とその徹底ぶりを回想している。                                               (吉田 裕『現代歴史学と戦争責任p136)(笠原一九司、吉田 裕『現代歴史学南京事件p26)


 

 こうのようにして大日本帝国は証拠隠滅を行ったのである。

 
この点において、実行した奥野誠亮氏が存命の内に、国会に招致して細かい事実を明らかにすべきである。すでに公文書の焼却と隠匿の罪で、裁判をすることは不可能だろうが、近年における近隣アジア各国との歴史問題における摩擦を顧み、事実を究明しておくべきだ。そして全国民がこうしたことが事実として起こったことを知らねばならない。




<フロク;戦時中の陸軍報道部を中心としたメディア戦略>

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0814/

従軍作家たちの戦争2013年8月14日(水)

午後10時00分~10時49分 NHK
日中戦争の時代、『麦と兵隊』で国民的作家になった火野葦平が克明に記した20冊もの従軍手帳が北九州・若松に遺されている。この程、全貌が明らかにされ、陸軍報道部を中心としたメディア戦略が浮かび上がってきた。当時、中国の蒋介石政権は日本軍の残虐行為を国際社会に訴えていた。のちに陸軍報道部長となる馬淵逸雄は、これに対抗するため、火野を報道班に抜擢。徐州作戦に従軍させ、「兵隊3部作」はベストセラーとなり、映画化もされ、戦意高揚に貢献する。さらにペン部隊が組織され、菊池寛林芙美子ら流行作家が参加していく。
太平洋戦争が始まると、火野はフィリピンで宣撫工作に従事し、大東亜文学者会議をリードしていく。しかし、実際に火野が目にしたのは過酷な戦場の現実だった。戦後、戦争協力で批判された火野は、自ら命を断った。作家を戦争に動員した軍のメディア戦略と火野葦平の軌跡を初公開の従軍手帳や関係者の証言から描く。

 

 
 
 
 追記) 2018-5-17
 辺見じゅん編『私たちの戦争体験』深夜叢書社、1985年
「青梅勤労動員署にいた私」福島正夫
(p87~p88)
昭和20年、東京

「戦争が日ましに激しくなってきた昭和18年から19年にかけて、当時、私は青梅勤労動員署の庶務課長兼労政課長の職についていた」「当時の勤労動員署は国民徴用令の関連で、警視庁管下」「陛下の終戦を告げられた放送があった日から3日目、8月18日GHQの情報が入り、警視庁勤労部長の緊急指示で、動員関係の極秘資料を、動員署裏庭で焼却した

ここにもいくつか掲載されているよ。
 
追記)2018-9-23
井上源吉『戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間』p276
こうしたなかで迎えた終戦だった。一部にはホッとした者もあったろう。しかし彼らに比べ多少でも情報の入手にめぐまれていた私たち憲兵でさえ、このうろたえようだったのだから、情報にとぼしい兵隊たちは寝耳に水のことで大変なショックであった。
  やがて重要書類が庭へ持ち出されて焼却された。この数カ月にわたる郴県分隊の記録はあとかたもなく灰となり、あとに残ったのはただいい知れぬむなしさだけであった。書類を焼いた煙が天空へ消えたとき、ようやく敗戦の実感がわいてきた。それとともにたとえようもないくやしさがこみあげるのを覚えた。



 山田清吉『武漢兵站』p288
私は敗戦と同時に、第六方面軍渉外弁事処武昌班に配属を命ぜられ、岳州から帰ってきた逵中尉とともに即日赴任した。留守中兵站司令部では軍の命令によって陣中日誌その他命令綴など焼却してしまったので、慰安関係の参考綴やスクラップブック、調査資料集なども、その時焼却されてしまった。



 森利『モリトシの兵隊物語-一兵士の哀歓-』p380
大急ぎで本部に出頭し、ここで初めて終戦を知り、天皇陛下勅語のことも聞いた。本部は重要書類の焼却その他の整理で大混雑、私は高級主計に面会し、今後の処置を受ける。・・・私は南京に一泊し、翌朝滁県に帰隊する。現地人は生気を取り戻したのか何となく元気がよい。彼等の読んでいる中国の新聞を見ると、日本の敗戦が克明に大書されている。帰隊と共に、私達も身辺の整理と書類の焼却をする。日本軍が連合軍に無条件降伏したという情報が徹底されるまでには、総軍の所在地であっても三日ぐらいかかった。