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文芸春秋社・・・その重すぎる戦争責任を問う





戦争当時、文藝春秋は30代~40代くらいの人たちに広く読まれて一人勝ち状態だった。2010年「文藝春秋」とアジア太平洋戦争武田ランダムハウスジャパン)を出版した国際日本文化研究センター教授の鈴木貞美氏はこう述べている。


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軍部は戦争に突っ走ったわけですが、中間派みたいな人たちを引っ張っていったのは文藝春秋と言っても過言ではない」





文藝春秋は戦前、もっとも売れた雑誌だった。おかげで作家で経営者でもあった菊地寛は莫大な財産を築いている。金持ちが権力に逆らわないのは当然だろう。満足できる生活だからだ。満足しているのに、軍閥なんかに逆らって、それをブチ壊されたんじゃたまらない。当時の軍閥や右翼は今よりはるかに危険だった。だから、金持ちは逆らわない。自由主義を唱えながら、「地頭には勝てない」とばかりに権力に迎合し、密やかに転向していく。保身に生きる人にとっては、当たり前といえば当たり前だが、文藝春秋はもう一歩先に進んでいる。自ら、「聖戦」をったのだ。

煽ればさらに安全だろう。
当時、「戦争反対」などと唱える勢力は、軒並み軍閥特高、右翼の自称愛国者”達に目をつけられ、身動きとれなくなっていた。
自分で煽れば、そういう愛国者連中に目をつけられたりすることもない。
だから、煽る側にいれば、安全だし、”愛国者”たちが喜んで買うので財産も増えるという寸法である。なんだか「イジメの構造」に似ているし、今の右派雑誌・新聞の「慰安婦煽動」「朝日攻撃煽動」とも似ているのだ。

高崎隆治一億特攻をた雑誌たちの中で、当時のほかの雑誌である改造中央公論などと比べて文藝春秋がことさらに戦争をった様子をこう書いている。




国民は政府を支持し、軍を激励する。涙なくして、誰か国防献金運動の美しき至誠、千人針の至情を見ることができやう。挙国一致、国家総動員体制はたちまちに完成して、日支全面戦争激突何ぞ恐るるに足らんの覚悟はできた。

この秋、文芸春秋は全日本国民に北支事変の真実の認識を要請し銃後の活動を資せんとして、事変増刊号を特集した。

「真実の認識」を読者に「要請」すると言いながら、しかし一部の突出した右翼的団体ー例えば在郷軍人会や国防婦人会などの献金運動や召集された兵士の家族がする千人針の要請を事例として、そのことで「国民は政府を支持し、軍を激励する」など勝手な裁断をくだすのは、戦争の拡大を願望し、企図する悪質なデマゴギーでしかない。

高崎隆治一億特攻をった雑誌たちp8-p9)




このデマゴギーの作り方は、今日のネトウヨや政治家たちの「日本人はー」という主張や産経正論will」文藝春秋などに掲載される文章とよく似ている。 ネトウヨは「日本人は、もう韓国の横暴を許さない」などというが、これらの右派雑誌では同様に一部の人の主張をもって、「日本人全体」の主張であるかのようなデマゴギーをしばしば行っている。右派雑誌・新聞は「一部の突出した右翼的団体の主張」を「日本人の主張」とする常習犯である。70年も前のやり方に学ぶわけではないだろうが、シェルドレイク仮説の唱える「形態共鳴」のような現象なのだろう。
話を過去に戻そう。

高崎隆治「(文芸春秋が)戦争へジャーナリズム全体を牽引した」(上記p34)と書いている。

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                               「一億特攻」を煽った雑誌たち―文芸春秋・現代・婦人倶楽部・主婦之友



                 サイコパス文芸誌

昭和16年になると文藝春秋は、しきりに対米戦争を煽りはじめる。この時期になると軍や政府に代わって、文藝春秋が戦争のオピニオンリーダーになったような感さえある。太平洋戦争をおっ始める1年ちかくまえの昭和16年2月号(第19巻第20号)では米国の攻勢と日本の決意」という座談会を組み、編集後記にはこう書いている。


「祖国日本は今や真に重大時局に直面している」
「・・・戦うべき時至れば、大いに戦うべし、我に万全な準備ありの自信に、事態の現実を深く掘り下げる必要がある。」
「日本戦うべし」

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満州事変がはじまり、挙国一致体制が成立したのが1933年。以来、軍閥の暴走と右翼の暴力テロに引きずられながら、日中戦争の泥沼の中をもがく議会制民主主義は崩壊しつつあり、時流はすでにのっぴならないところまで来ていた。そうした中で政党政治の息の根を完全に止めようとする大政翼賛会がつくられ、彼らのいう「聖戦完遂」を目指して総動員法下の全国民を奈落の底に突き落とす準備が整っていたのである。

他の雑誌の多くは、軍部とぶつからないようにしながらも戦争をるのは忌避していた。それは編集者としての良心があったからだ。ところがその中で戦争をあおることで当時の”愛国者”のハートを鷲掴みにして売上を伸ばした良心の無い雑誌。それが文藝春秋であった。・・・・すなわち、戦争を煽った金もうけ主義のサイコパス文芸誌であったと言えるだろう。

だからこそ、その伝統を引き継ぐ文藝春秋の鬼子週刊誌文春は、今日でも絶えずセンセーショナルなねつ造記事を書いては、訴えられている。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64671912.html

最近では、安教授のコメントを歪曲・捏造した件がある。
安教授が「19人の聞き取り調査を実質的に否定した」というありえないような記事だったが、案の上安教授自身によって、抗議を受けたのだ。安教授は自分の考えを書いた文章を掲載することを求めたが『文春』はそれを拒絶。あげくは安教授を嘘つき呼ばわりしている。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/folder/1564633.html
どうなってるんだろうね、この雑誌?売上のために良心を悪魔に売り渡したとしか思えないような所業であった

そして親方の文藝春秋の方は、塩野七生のデタラメ記事を指摘されても、まったく答えることも無い。一弱小NGOが、問題を指摘しても無視すればよいと考えているのだろうか?

戦後菊池 寛は翼賛運動の一翼を担ったために、公職追放なったにもかかわらず、反省の弁がなかった。それどころか「我々は誰にしても戦争に反対だ。然し、いざ戦争になってしまえば協力して勝利を願うのは、当然の国民の感情だろう」などと正当化している。”戦争反対でも戦争が始まってしまえば、煽っても当然だ”と言うこうした心ない人物が、戦前の日本では金と力を持っていたのだ。しかも実際には「いざ戦争になってしまった」のではなく戦争を煽っていたのである。

高崎隆治文芸春秋が)戦争へジャーナリズム全体を牽引した」と書き、その実例として菊池 寛「話の屑籠」という随筆1941年12月号)で対米戦争を煽った様子をこう書いている。


・・・・「話の屑籠」に菊池 寛は、「英米の脅喝が、何うあらうとも、一旦 火ぶたが切られたならば、わが海軍の精鋭は、太平洋はもちろんのこと印度洋南洋にわたって、驚天動地の活躍を演ずるであろうことを、我々は信じている」と述べている。                                 
 連合艦隊司令長官ですら、「帝国海軍」の実力に確信を持ち得なかったにもかかわらず、「国民は信じてる」などと何を根拠にしての断定なのか奇怪だが・・・・・                 一億特攻をった雑誌たち36)


天皇は開戦を何度もためらっていたというのが、もし事実だとすれば、文芸春秋』はその天皇をそそのかし、その足をひっぱったということになる。一億特攻をった雑誌たち36)


山本五十六は、対米戦争を回避したがり、まだ軍も迷っていた1941年12月前話ある。この号は、対米戦争をあおる総力特集らしく、様々なゲスな扇動がふんだんに盛りこまれている。

こんなことを書いていたという。
アメリカは日本の実力を過小評価してきた。そしてあらゆる方策をもって日本を圧迫してきたのであるが、その実力をはっきり認識させて、アメリカの西太平洋より撤退を余儀なくさせることが緊急となってきた。      一億特攻を煽った雑誌たち35)

戦争を拡大することで、支配権を伸ばしてきた軍閥の意見を代弁しているのである。


しかし、こうした暗黒の歴史が文藝春秋社の編纂した『「文藝春秋八十年傑作選などに掲載されることは決してないのである。

朝日新聞は戦前の自社記事を振り返り反省しているが、文藝春秋には「振り返る」が存在していない。「振り返る」がないから「反省」もなく「生まれ変わって出直す」こともない。こうして大日本帝国の一部の神国妄想好きな人々と連動するそのあり方は、今も繰り返されている。



歴史は繰り返す

ゆえに今日でも文藝春秋は同じ過ちを繰り返している。右翼勢力に迎合し、西岡力のデタラメな慰安婦論を宣伝してきた文芸春秋慰安婦問題における戦犯と言えるであろう。







<参考>

http://news.livedoor.com/article/detail/5258558/

戦前の日本を読み解く「あの戦争は何だったのか」

1941年12月8日に日本軍が真珠湾攻撃をしかけてから、69年が経った。アメリカとの太平洋戦争において、日本は無謀な戦いに邁進し、原爆投下という悲劇によって敗戦が決定的となるまでの間に、およそ300万人の国民が命を落とした。

GHQによって施された戦後教育は、「戦前」を悪の時代とし、太平洋戦争を全否定する史観に基づいている。「戦後生まれ」と言われる60年代初頭までに生まれた人々は、それが当たり前のものとして育った。日本政府も、1995年に村山富市首相が発表した「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」(一部抜粋)という“村山談話”を公式見解として引き継いでいる。

こうした史観を自虐史観と非難し、「正義の戦争」だったという人々もいるが、本当のところはどうだったのか、あの戦争はいったい何だったのか、検証はまだ誰も成し遂げられていない。

そうした中、国際日本文化研究センター教授の鈴木貞美氏が、先日「『文藝春秋』とアジア太平洋戦争」(武田ランダムハウスジャパン)を上梓した。本書を書いた意図を鈴木氏に訊いた。

「20世紀の両大戦間の日本、あるいはアジアの様子が、今まで言われてきたことと違うぞ、ということにそろそろみんな気がつきはじめています。ところが巷では、まだまだ戦争の悲惨さとか、そういうのを伝えるものはたくさんありますが、実際の当時の日本人がどうだったかというところに関心が向かっていません。じゃあもう一度、冷戦が完全に終わったところで、冷戦期に作られた史観っていうのは違うのではないか、今ならちょっと落ち着いて総括できるのではないか、歴史の見方を当時の状況に戻って考えましょう、というのが一番大きな理由です。

 戦争当時、文藝春秋は一人勝ちの雑誌になっていきました。会社勤めをしている、30代~40代くらいの人たちに広く読まれていて、非常に影響力がありました。軍部は戦争に突っ走ったわけですが、中間派みたいな人たちを引っ張っていったのは文藝春秋と言っても過言ではないわけですね。では、その中身はどうだったのか、中間派の人たちがどういうふうに戦争に引きずられていったのか、そこにポイントがあると思って、ずっと掘り起こしてみたかった」

日中戦争開戦時、戦争に反対する立場だった菊地寛の文藝春秋グループの文化人たちは、やがて太平洋戦争にコミットしていくことになる。戦後、菊地寛は戦争協力者として糾弾され、公職追放された身のままその生涯を閉じている。

「彼らは最初から軍国主義者だったわけじゃない。その人たちがどうやって動いたのか、はっきりしていなかった。そういったところを、日本の若い人たちにも考え直してほしいと思って検証していきました。彼らも、一人ひとり考え方が違います。親中国派みたいな人もいたし、早く戦争をやめさせたいと思っていた人もかなりいた。当時はああだったと、単純に語られるものではありませんでした。

デモクラシー対ファシズム、被害者対加害者というような、わかりやすいモノサシで世界をはかることはできません。たとえば尖閣諸島の問題にしても、日中間がとても緊張しているという報道が目立ちますが、実は中国にもいろんな考えの人がいる。政府のやり方に距離を取って見ている人も多い。親日反日、親中と反中というような、今まで使ってきた単純なモノサシを疑わなければ、世界を見誤ることになります。歴史は大きく変わっています。冷戦期の図式じゃなくて、もう一度見直さなければならないのです」

戦前が悪の時代だったと決めつけてしまうと、思考はそこでストップしてしまう。当時を生きた人々も、現代の私たちと同じように、様々な意見を持っていた。

「でも、自由主義、中間派の人たちも、やがて戦争に突っ込んでいってしまった。それはなぜなのか。ここをもう一回チェックしておかないと、『もう二度と戦争しません』という言葉も、あてになりませんよね。自分なりのモノサシをしっかり作って世界を見ていかなければ、政治やジャーナリズムにふりまわされることになるのです」

尖閣問題はより先鋭化しようとし、朝鮮半島もきな臭くなり、単純に「戦争反対」だけでは立ち行かない時代に突入しようとしている。そんなときだからこそ、あの戦争をもう一度振り返ってみることは、日本人にとっての大きな課題であり、必要なことだ。そのために、戦前の言論がどんな経緯を辿ったのかを知る本書は、多くの人たちが手に取るべき本だ。

(文/田中亮平)