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吉見裁判第5回口頭弁論で吉見サイドのミッチナ資料解説について(第一部)




201498日(月)吉見裁判第5回口頭弁論が開催された。裁判の模様は、事務局員」による参加記に任せるとして、ここでは、裁判の中で明らかになった吉見義明教授の、その濃密な研究に触れたい。今日は「ミッチナ資料」の読み方についてである。

それにしても、20年以上も研究してきた専門の歴史家の著作、研究成果を、まったく研究したことのない政治家が「ねつ造だ」と断言してしまったこの事件。桜内氏には勝ち目がないことぐらい最初から分かりそうなものだが。


   被告証拠説明書3

   原告準備書面5

   原告証拠説明書

 ミッチナ資料(日本人捕虜尋問報告49号)               についての吉見教授の資料批判



吉見裁判第5回口頭弁論に被告(桜内サイド)が、出してきた第三準備書面「日本人捕虜尋問報告49号」(通称、ミッチナ資料)を使って「慰安婦の生活条件」が性奴隷に値しないことを論証しようとしたので、吉見サイドはそれに反論して以下のように述べている。

     

桜内被告サイドに対して 吉見サイドは
 軍慰安所における「慰安婦」の状態について
   被告第三準備書面は、主として「日本人捕虜尋問報告」第49号(乙第9号証)を根拠に、①「慰安婦」は「相当な高収入」であった、②「廃業の自由」・「外出の自由」・「拒否の自由(接客拒否権)」が認められていた、と述べている。しかし、これらはいずれも、事実誤認による誤った断定である。
 
 と述べて、桜内サイドが資料に対する知識が足らないために事実誤認している事を指摘している。

まず、被告は、乙第9号証(捕虜尋問報告第49号)
史料批判(資料批判)を怠っている。
 
桜内被告サイドの弁護士である高池 勝彦弁護士は「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長である。そして新しい歴史教科書をつくる会」の創始者ともいうべき藤岡信勝秦 郁彦は、仲良しである。または今年一月号の雑誌「正論」で桜内議員と対談している。こうした関係から、桜内被告サイドに知恵をつけているのは秦 郁彦氏であろうと推測できる。実際にこれまで桜内被告サイドが出してきた論理はほとんどが氏の著作からの引用である。そして秦 氏の著作ではろくに資料批判していないのが、このミッチナ資料である。(慰安婦と戦場の性P124-P126)

 吉見サイドは、この史料の説明をして以下のように読みこんでいる。


この記録は、アレックス・ヨリチという日系アメリカ兵が20名の朝鮮人慰安婦」と2名の業者(夫婦)から聞き取りをしてまとめたものだが、どの部分が「慰安婦」の言い分で、どの部分が業者の言い分か、判然としないものである。被告が引用している部分は、「慰安婦」の境遇を極めて牧歌的に記録しており、業者の主張に引っ張られているということを考慮に入れる必要がある。たとえば、「彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した」とあるが(8頁)、実際には、戦場では部隊の身近に女性がいないので、「慰安婦」がこのような場所に駆り出されたのである。また、苦界に拘束されている「慰安婦」におとなしく軍人の性の相手をさせるために、そのストレスを発散させる方が効率的だと軍が判断したからでもある。
 

大半が北村夫妻からの情報

「どの部分が「慰安婦」の言い分で、どの部分が業者の言い分か、判然としない」上に、おそらくはほとんどの部分を業者夫婦(北村夫妻)から聴取したものと思われる。なぜなら、この捕虜尋問を担当した心理作戦班は、日系人が日本語でビラを作り、日本が敗北しつづけている戦況を知らせたりして投降を呼びかけることを仕事としている部門だったからである。日本語はそれなりに堪能だったが、韓国語はできなかった。ゆえに北村夫妻とは意思の疎通が比較的楽だっただろうが、韓国人の慰安婦とは片言の日本語でやり取りしたものと思われる。
とすれば、慰安婦たちにも話を聞こうとしただろうが、大部分を北村夫妻から聴取したのだろう。

「ピクニック」と英訳された状況とは?

「捕虜尋問報告」第49号には確かに「ピクニック」と書かれているが、これは翻訳上の問題ではないかと私は考えている。日本人には集団でピクニックに行く習慣が乏しい上に、もしそのようなことがなされていたならいくつかの戦記に書かれていそうなものだが、兵士が戦場でピクニックに行ったという話はこの文書以外には書かれていないからである。日本には集団で花見をして酒を飲む風習があるので、戦地の兵隊たちが「花見のようなこと」をしてどんちゃん騒ぎをした可能性はあるだろうし、またそれを日系人が英語に翻訳する際に「ピクニック」としたものと推測できる。その場合「慰安婦」たちは、「演芸会、夕食会」と同様に、お酌をする係りとして呼ばれたものだろう。
ビルマでは宴会に慰安婦を呼んでいた。これは文玉珠さんの著作 文玉珠 『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎 1996年)にも書かれている。




次に、①「慰安婦」は「相当な高収入」であったという断定も、事実に反する。
ア 乙第9号証(捕虜尋問報告第49号)では、「慰安婦が普通の月で総額一五〇〇円程度の稼ぎを得ていた」が、「慰安婦は「楼主」に七五〇円を渡していた」とある(445頁)。この記述は、極めて不正確である。軍人が利用料金を直接「慰安婦」に渡すことはありえない。業者が徴収し、借金が残っている場合は6割を、借金がなくなった場合は5割を差し引くのが普通であり、さらに食費、衣料費、物品費、病気になった場合の治療費、天引き貯金などの名目で天引きしていくので、「慰安婦」にはほとんど渡らないのである。
 
慰安婦」が月に1500円も稼ぎ、750円は楼主にいき、750円も収入があったとすると、もし最大2000円の借金があったとしても、わずか3カ月で自由の身になることができるはずである。しかし、ビルマ慰安婦生活をし、高額の報酬を得たと右派が宣伝している(じつは高額ではないが)文玉珠(ムン・オクジュ)さんは、慰安所からの報酬はもらっておらず、チップを貯蓄したという。また、漢口慰安所の回想本を書いている山田清吉さんは「1年半ぐらいで借金を返し・・・」(武漢兵站P81)と予測したようだ。
これは金もうけ主義の慰安所楼主の強欲さを考えない、”甘い見通し”ではあるが、3カ月で借金を返せるようなものではないことがわかる。

したがって、慰安婦が月に750円も収入があったという話はほとんどあり得ない話である。ただし、日本人慰安婦の場合、内地で遊郭につとめていたが、経営者の好遇を約束されたようなこともあり、民族差別もあいまって、かなり収入があった例外的な話もある。

楼主はここで述べているように「食費、衣料費、物品費、病気になった場合の治療費、天引き貯金などの様々な名目で天引きしていた」ので慰安婦に代金が渡されることはほとんど無かった。そして慰安所の経営者にとって、慰安婦は金儲けの道具であり、できるだけ長く搾取しようとしたのである。


ウンチク
漢口の慰安所での女性の収入について秦 郁彦氏は400円ー500円としている。慰安婦と戦場の性P389「表12-8慰安所の生活条件」)
もしほんとうにこんなに収入があるのなら、なぜ「1年半かかる」と山田清吉は計算したのか?
そういう事を氏はまったく説明していない。それどころか、慰安婦と戦場の性p391-p392では「他の職種や平時娼妓稼業と比べて何よりも戦場慰安婦の有利な条件は、高水準の収入だった。」収入金額でいうと内地の5倍以上、平壌遊郭の女たちに比べると10倍以上を稼ぎ出したことが知れる前借金を早ければ数か月で返済し、あとは貯金に回すことができた」

文 玉珠の場合は売れっ子だっただけに、3年足らずで2万5千円を貯金し、うち5000円を家族に送金している。今なら1億前後の大金である。」・・・という謬説を流している。

これは要するに慰安所業者が本当に正直者で額面通りの玉割りでやって初めて起こることである。秦 氏らしいお人好しなご意見だが、業者が法の不備をついて、より巨額の金を儲けようとするのは、容易に想像がつくのであり、内地の遊郭業者がそうであったように、慰安所の業者も規則の大きな不備をついて「様々な名目で天引き」し、慰安婦の手元には残らなかった例が多いのである。文 玉珠さんの場合は占領地全体に蔓延した極度のインフレを考察しなければならないが、「規定と実情の両面から考察する」(p390)とか書きながら秦 氏にはそうした考察すらないらしい。                                                                     

     


日本人「慰安婦」として自伝を書いている城田すずこさんは、台湾の海軍専用遊郭での体験を「名実ともに奴隷の生活が始まりました。」「半年くらい働いて計算してもらうと借金ははじめから少しも減っていません」と書いている。(『マリヤの賛歌』P34、P36)

また、在日の元慰安婦である宋神道さんは、食事代金とワンピースをもらった代金が前借金とされてしまいその微細な額を返すのに、3年もかかっている。さらにお金を請求すると楼主は「国防献金するから渡せない」といったという。(『オレの心は負けてない』P176)

もしこれが戦地ではなく内地の遊郭なら、世間と警察の目があるのでとてもここまではできないだろう。内地の遊郭も女性を食い物にしていたが、世間や警察がない戦地では、楼主は誰に気兼ねもなく、さらに極端に女性を食い物にできたのである。自分が裕福になるために、他人を食いものにするようなやり方は、もちろん日本人が発見したものではない。どこの国のどの地域の誰にでも有るエゴイズムであり、それが至るところで地獄を作るように、戦地でも地獄がつくられていた。それも飛びっきり強力な”地獄”が作られていたのである。クモの糸につかまるのオレ一人で十分だ、糸が切れるからと足で他人を蹴飛ばす光景が現出していた。それが慰安所であった。
慰安所経営者を軍属としてなれ合い、忘八と呼ばれた女衒の仕事を公認し、彼らを自由にやらせることで、地獄のような世界を作ったのが皇軍であった。

多くの人が勘違いしているようだが、慰安所制度は日本軍が自ら必要だと考えて作ったのである。発案し、制度を作っただけではなく、現地軍から日本政府に「何名送れ」とかいう秘密電報が飛び交い、軍の船やトラックが女性を移送し、現地軍が占領地の学校や教会を接収して慰安所造っていたりする。接収というのは要するに、軍事力によって他人の持ち物を奪ったということだ。慰安所は軍の後方施設であり、経営したのは「軍属」または「軍属待遇」の楼主であり、慰安婦は「無給軍属」あるいは「軍従属者」「特要人」である。軍直営の慰安所も造られていた。

こうした慰安所では徴集時には、誘拐、就業詐欺、拉致、人身売買などの犯罪行為が頻繁になされたが、1941年以降になると朝鮮の警察さえ女衒を取り締まった例がない。国際法や国内刑法(国外移送罪)に違反していたばかりではなく、慰安所内部でも様々なタイプの不正がなされていたが、現地憲兵隊はそれを取り締まらなかった。女衒が騙して連れてきて、楼主が監禁している女性を軍の将校が強姦するような場合にそれを取り締まるような軍の法は存在しなかったからだ。日本には慣習として、(借金をかたに)女性を遊郭に放り込んでは強姦するシステムが長い歴史のなかで確立されていたからである。つまり、女性が性を蹂躙されて泣いている光景は日本人には遊郭の歴史の中で見慣れた光景だったのである。しかし、他の国の人々にとってはそうではなかった。たいていの国では売春は社会の片隅でこっそりなされていたのである。
他の国にももちろん売春はあった。おおむね自由売春の部類に入るだろうが、都会ではしばしばギャングの生息地となり闇の世界につながっていた。女性が自由売春しているとその地域を縄張りとしているギャングが上納金を求めに来るのは、世界各国の腐敗した都会に見られる現象だっただろう。
”売春そのもの”がおそらくは人類の自然のあり方に反している行為なのであろう。そこで”売春”と”他の犯罪”は、互いに呼び合い、連鎖しながら蔓延していくのである。
しかし、日本では、その規模も、悪質さもケタ外れだった。社会全体が、遊郭の存在を”日本の伝統”として歴史的に受け入れ、神社のお祭りの主役となることさえあり、身売りや女衒の悪辣な行為さえ看過されていたのである。その悪質な部分を名目上、押さえていた娼妓取締規則をさえ排除しながら軍が作ったのが慰安所制度であった。


ウンチク
娼妓取締規則」では、娼妓が自ら警察に出頭し、登録することによって「強制」ではなく「自由意思」によって売春するのだということを証明することになっていた。しかしもちろんこれは形式上のもので、たとえこの段階で女性が拒否したとしても、じゃあどうやって借金を返済するのか?という話になり、結局は遊郭で身を売るしかなかったのである。戦前の日本社会は一部の突出した地主や財閥にとって有利な制度が確立しており、五割を超える小作料、低い労働賃金が富国強兵の名の下に正当化されていた。つまり、安い賃金で働くのも「お国のため」なのである。しかし「お国の(富の)ため」に働いて肥え太るのは財閥を経営している一族であった。彼らは貴族然とし、芦屋や山谷など各地の貧民窟で泣き叫ぶ尻目に優雅な暮らしを楽しんでいた。こうした社会矛盾を一身に背負ったのが娼妓たちであった。多くの少女が女衒の騙されながら身を売り、しかし引き返せなかったのは、故郷の家族の貧困があったからだ。そのような社会矛盾の結果だと言えるだろう。
今日本では戦前のように格差が激しい世界を作ろうとしているバカが奮起している。「一部の企業が富んだ後に、自動的にその恩恵が全体に回る」とかいうクソみたいな理屈だが、歴史に学ばないとはこのことである。
いったいこれまで一度でも、「一部が富んだ後に、自動的にその恩恵が貧者に回る」ような例が歴史にあったというのだろうか?

     
そのため女性を集めてきては強姦し、そのまま「慰安婦」状態にして集団強姦するような悪質な「慰安婦」状態強姦事件が多発している。しかし慰安所に放り込んでから、集団強姦を引き起こしたとしても、その犯人を日本軍が軍法会議にかけた例は存在しないのである。「慰安所を作る」という名目さえあれば、集団強姦も見逃してもらえるわけだ。

日本軍および大日本帝国政府にはこうした”地獄”のシステムを造った責任がある。

   (つづく)