「挺対協と元慰安婦たちが一緒になって、身の上話を何通りか創り上げた」という話を盛りはじめた秦郁彦
ちゃんと証拠を示してから言えよ。
「1990年代の半ば、最初はね、彼女たちの身の上話がどんどん出てた。その度に非常におかしなことが多い。なぜかと言うとね、向こうの挺対協という団体と彼女たちが一緒になって、身の上話を創り上げる訳ですよ。何通りもできちゃうんですね。それを見てコレおかしいじゃないか、ありえないことがいろいろある。と言うんでですね、2000年のその時には主語を全部取っちゃったんですね。」(2:05~2:40)
実のところ私は挺対協が韓国左翼と結託して、基地村裁判に参加していることには批判的である。その点で彼女たちのやる事に100%賛同する訳ではない。しかし秦のこれは酷すぎる。
まったく根拠のない話をしている。
いつ、どこで「挺対協と元慰安婦たちが一緒になって、身の上話を何と通りか創り上げた」のか?
ちゃんと証拠を示してから言いなさい。
挺対協が元慰安婦たちと、「身の上話を創り上げて」いないことは確実である。
それは、あまりにも変な話が時折でてくることからもわかる。この点では泥 憲和さんが考察する通りだろう。
PTSDによる記憶の変質について
初期の元慰安婦の方々の話しは、PTSDによって記憶が歪められていることが多い。記憶が混同していたり、完全に忘却の彼方に沈んでいたりする。しかし話している内に次第にまとまるようになる。ゆえに話し慣れていない最初期と記憶が繋がった後では少しづつ話が食い違うのが当たり前である。
『精神科医がみた「癒し」』と題して、桑山紀彦(精神科医 神山病院 心療科長 山形大学医学部精神神経科)はこう言う。
http://www.suopei.jp/1998/08/
精神科医がみた「癒し」
1998年8月29日 20:19 「慰安婦」訴訟 | 中国人「慰安婦」裁判を支援する会 | 山西省第1次第2次訴訟 | 東京 回復の3段階は何処へ…
精神科医・上山病院心療科長・山形大学医学部精神神経科 桑山 紀彦(1998年8月25日)
PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、ゆがんだ記憶が打ちのめす人々の悲鳴である「忘れられないから辛い」のでははい。人間は忘れる生き物である。いつまでも苦しく辛い記憶を覚えていて苦痛にうなされるということは、どんな人でもないと考えて良い。
しかし、PTSDは、その外傷の記憶が、ゆがんで記憶されたために起こる「苦痛」なのである。このようにゆがめられた記憶(つまりPTSD)は、持続的に人を苦しめ、その被害は実に継続性に生じるのである。
だとえばあるレイプの被害者の人が、「角を曲がる」という時点になる度に不思議と息が詰まり、動悸がして不快な思いにさいなまれるのは、その人が角を曲 がったところで被害に遭ったからであろう。そしてその被害の記憶は、一旦忘れられたように思われていても、実際は無意識の中にゆがんで記憶され、被害に 遭ったのは全く違う街の通りの角なのに、ゆがんだ記憶は、すべての曲がり角に恐怖心を植えつけ、すべての曲がり角を曲がらせなくしてしまうのである。
私が関わっている中国人の元「従軍慰安婦」の方々は、その二回の調査の末、驚くべきことにPTSDの診断基準を(DSMーIV)すべて満たしていることがわかった。
特に「侵入」「過覚醒」「回避」という三大症状はすべてそろっており、それが五十数年もの間継続してご本人たちを苦しめてきてことがはっきりしたことは、精神科医である私にとってもショッキングなことであった。
特に二回目に行った描画テストとしてのバウムテスト(一本の実のなる樹を書いてください)をみていると、実にその実の描かれ方の小ささにもがくぜんとし た。様々な難民キャンプでこのバウムテストを施行してきたし、いわゆる農村部や、未開と呼ばれている地域でも施行してきたが、このような小さいバウムテス トの樹木は珍しいと思われた。それほど意識野は峡少化し、社会性は限極化され、精神的なエネルギーはごく小さなものになってしまっていた。
このPTSDやトラウマの回復の過程には大きく三つの段階があると言われている。それは、「安全の確保」「外傷性記憶の想起と服喪追悼」「世界との再結 合」と表現されている(JudithL.Herman,1996)。その中で、「安全の確保」は二度とそのようなレイプ事件が起こり得ない環境となった時 点で一応達成されたと考えると、問題は第二段階である。「外傷性記憶の想起と服喪追悼」は、この五十数年間の間で全く進んでいないのである。それが故に、 このPTSDは継続的に本人を苦しめてきたのである。それは言い換えれば「語る場所が提供されなかった」「自分の被害を認知してもらえなかった」というこ となのである。その視点から見ると、実は驚いたことに、この裁判そのものが外傷性記憶の想起に多大な役割を果たしているのである。弁護士が丹念に本人の話 を聞く。そうして最初は自分でもまとまっていなかったものが、繰り返し聞かれることで、次第にまとまったり、逆に物語性を帯びてきて、ちゃんと自分で語れ るような「物語り」になっていくのである。
これは確実に「癒しの過程」を経ている。
裁判の結果はまだでていない。しかし裁判をすることによって五十数年前の外傷性記憶は語る場を提供され、想起され、物語となって人々に吸収されていき、最 終的には本人の中で「これで語れたのだ。自分の”語り得なかった”部分はすべて吐き出したのだ」と思って、追悼の儀式が始まるのである。
だから、日本にまでやってきて、ちゃんと裁判所の中で自分の外傷性記憶を語った三人の人はある意味で晴れ晴れし、別の生的エネルギーを得ているような気がする。これは弁護士の三木さんも同様の感触を持っており、桑山も同意するところである。
結果は全然でていないけれど、日本の裁判所までいって、ある人からは「まとまりない」「つじつまが合わない」などといわれながらも、自分の物語として語ったときに、外傷性記憶は追悼されていくのである。
実は「つじつまが合わない」ことこそ、外傷性記憶の特徴で、PTSDに非常に見られる有効な所見であるのに、それを指して「だからこの被害の事実は不透明 だ」とする一部の人々の誤った理解、PTSDのメカニズムについての無知さにはあきれるものがあるが、それを圧して尚、「自分の物語り」を完成させてあげ ることの有効性(回復の過程における)を、私はまざまざと見たのであった。
訴訟も、支援する会の活動も、だから意味がある。
訴訟の結果も気にはなるが、精神科医としては「癒されること」がもっとも大切な命題である以上、この一連の訴訟と支援活動に触れてみて、確実に「癒し」が進んでいることに、ほっと一息をついている状況である
慰安婦問題は”癒しの物語”である。
元慰安婦の人々が、最初はつっかえひっかえ、思い出せない部分を悩みながら、話していたのが、やがて上手く自分の体験を話せるようになるとつっかえているものが解け始め、表情が明るくなり、他人とも打ち解けて話せるようになる。心にわだかまっていた苦しみの体験が仲間や聴衆に共感されて行く。
それは”癒しの物語り”なのである。
そして、それを見ているこっちも癒されていく。
胸が軽くなり、本当に良かったと思う。
だから元慰安婦の方々を話を聞くのは楽しい。
一度も、聞きに来ることもない右派は、そこを完全に勘違いする。彼らは日本軍が酷いことをしたという話は、「日本人の誇りを失わせる」と言うが、そんなことで失う誇りなど、最初から有っても、無くても同じようなものだ。
彼らは頭の中で妄想を繰り広げ、怒りを作ってしまう。こうして癒しを自ら拒否しているのである。癒される事の無い世界に自分で行ってしまう。それが彼らの可哀想なところである。しかし出口を教えてあげてもめったに出ようとはしない。
秦郁彦には永遠にわからないことだろうが。