続・侵略思想の淵源・・・皇軍は一個の強大な<国家神道カルト集団>であった
続・侵略思想の淵源・・・大日本帝国はどうして侵略国家になったか?
皇軍は一個の強大な<国家神道カルト集団>であった。
戦争は理念と理想をかけた戦いである
東大文学部の加藤陽子教授が、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に書かれている「戦争は・・敵対する国家の憲法に対する攻撃の形をとる」を解説して、「戦争は相手の憲法を書き換える」戦いであると書いている。(加藤陽子『それでも日本人は戦争を選んだ』p41)
これは言いかえれば、「戦争は表面上は武器をとって戦いながら、理念と理想をかけた戦いなのだ」と言うことだろう。
なぜなら、憲法はその国の骨格であり、なるべき理想の姿と理念を描いているからである。
それが問題なのだ。
伊藤博文のいう「国体」
1976年元老院が起草した憲法案は、伊藤博文が廃案にした。そこでその伊藤が憲法を起草することになったが、言うまでもなく、伊藤は吉田松陰の弟子であり、ゆえに松陰の国学思想がベースになったのである。その後、伊藤が刊行した注釈書である『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳っている。http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kenpou_gikai.htmつまり大日本帝国憲法が理想・理念としたのは「日本固有の国体を強調」し(『講孟余話』)、アジア侵略を唱えた(『幽囚録』)吉田松蔭たちの思想であったといえる。
帝国憲法に関する戦前の解釈の中で比較的穏健なのは有名な美濃部達吉の天皇機関説である。この説では天皇を国家の機関としており、議会の役割を重視し、政党政治を支えた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC
しかし美濃部は1935年には右翼テロの標的とされるようになり、貴族院において天皇機関説が排撃され、勅選議員であった美濃部は弁明に立ったが不敬罪の嫌疑を受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となっている。その後帝国は「国体明徴」へと進んでいく。
美濃部に攻撃を加えていたのは、軍人と右翼であった。
美濃部を排除する20数年前の1912年、<上杉ー美濃部>論争がおこった。美濃部達吉の憲法解釈に対して天皇主権説の上杉慎吉が批判したことから始まり,公法学界を中心に行われた明治憲法の解釈をめぐる論争が繰り広げられた。この論争で天皇機関説が優位に立ったのだが、陸軍は理論上は敗北したはずの上杉慎吉を陸軍大学校に迎えたのである。そして理論では勝てない右翼はテロで美濃部を狙うようになる。このあたりが日本を侵略戦争に追いやる間接原因になるのである。
上杉慎吉は『日本書紀』にある「豊葦原千五百秋瑞穂国是吾子孫王地宜爾皇孫就治行矣宝祚隆当天壌窮」を根拠に「日本は唯一本当の君主国である」「天壌無窮の国体を有する日本は大帝国を建設するにふさわしい」とその侵略思想を述べている。(井田輝敏『上杉慎吉 天皇制国家の弁証』)

●上杉の構築した憲法学の際立った特色とは?
そして「日本は大帝国を建設するにふさわしい」という言葉に指示(暗示)を受けていた軍人たちが、大帝国を建設する侵略戦争を始めたのである。
陸軍はもとより、長州閥の支配するところであり、http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64811138.html平田篤胤や吉田松蔭の思想を引き継いでいたが、そこに新たに「日本中心、侵略主義」の憲法学が加わり、ますます神権天皇制に傾いていくことになる。
『平沼 騏一郎回顧録』(1955、p34)によると上杉慎吉は陸軍のボスである山縣有朋と接触し、桐花学会(どうかがっかい)が作られたという。この桐花学会は、「忠君愛国」の精神の普及と政党排除を目的としていた。
政党排除とはつまり、議会制民主主義を敵対視していたということである。
だから、民主主義の総本山であった米国と戦うことになったのである。
恐ろしいことだ。
これはもう一個の強大な<国家神道カルト集団>であったといえるだろう。
(つづく)