河野談話を守る会のブログ2

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村島帰之の『賣淫論』の「性奴隷」考察


明治時代の終わり頃、神戸芦屋の貧民窟に身を投じ、まさに『死線をこえて』生きた牧師・賀川豊彦は、当時もっとも著名なクリスチャンであった。その賀川の盟友が村島帰之である。大阪毎日新聞の記者であった村島は1925年自身の買春を懺悔した『歓楽の墓』を著作し、賀川から洗礼を受けると廃娼運動家として生きている。村島帰之が昭和5年ころ、キリスト教雑誌「雲の柱」に連載していたのが賣淫論』であった。


村島帰之は女性が娼婦稼業に落ちる原因として、「貧困」の他にこんな理由を述べている。

 要するに女子職業としての賣淫は窮迫せる女子にとって最も魅力を持つものである事は争ふべからざる事実である。然し此の魅力は啻だに若い女子のみならす、その女子の父兄にまで及ぶ事が多い。特にわが國の如く家族制度が確立してゐて、子はその親の所有物であるが如き観念の行はれる國にあっては、屡々娘は親のためにその意志に反して貞操を売らせられる。特に公娼制度が確立し、前借金制度が行はれて、庶民金融機闘として機能を発揮してゐるわが國にあっては、そこに大きな搾取制度、奴隷制度の穽があるとも知らず、一時の金融に前後の見さかへもなく、親は大切なその娘を売るのだ。勿論本人が飽くまで之を肯んじない場合は仮令親と雖も強請する事は出来憎いが、困った事にはわが國の無智な娘たちは、芝居や浄瑠璃や講談で自らの身を売り、親の薬餌の料を支辨したなどといふ昔がたり――それも誇張され、美化されたロマンスを無條件に受け容れて、これを親孝行の最大なるものの如く考へてゐるため、親から苦界へ身を売るやうに云はれれば、殉教的考へから二つ返事で自らを人身供養とする事に決意する者が今日なほ甚だ少くない。即ちこうした心理的原因が上記の経済的原因に加勢して、無垢の處女を淪落の淵へ突き落したものとかいふ事が出来る。殊に忠臣戴のおかるの身責りのロマンスの如きは古来如何に多くの可憐な日本娘を苦界へ送り出すのを扶助したか測り知れぬであらう。



ここで
 「公娼制度が確立し、前借金制度が行はれて、庶民金融機闘として機能を発揮してゐるわが國にあっては、そこに大きな搾取制度、奴隷制度の穽があるとも知らず・・」と書き、公娼制度の中に奴隷制度が存在するという認識を示している。



私娼において、「一家の困窮のため」という動機は7分にすぎず、六割八分は「本人の素行修まらざるもの」としており、二割三分六は「情夫叉は他人の陥穿によったもの」であるという。
この「情夫叉は他人の陥穿によったもの」には次のようなものがあるが、これはいわいる女衒の誘惑法である。

 「無垢の娘を陥穽するために行はれる方法で最も巧妙な誘惑手段は、オチモノ拾ひといふ方法である。即ち年老いた媼などを盛り場や停車場に出張らしておいて、田舎から出て来たらしい女に近附かせ「あんたはどこから来なさった」と問はせ、例へば大和の郡山から来といへば言下に「ホオ、私も実は郡山で、それはおなつかしい事で」と巧みに少女の心をつかんだ上「大阪といふ處は怖ろしい處で悪者が始終狙って居て、あんたのやうな生娘は直ぐ欺されて了ふさかい」と親切らしくおどして「まあ、明日ゆっくり口でも捜す事として今夜は私の處へ泊って久しぶりに國の話でも聞かして下さい」と言葉柔しく説き伏せて我家へ連れ帰り、今日は活動、明日は芝居と遊び歩かせ、路銀を悉皆費消すさせ、更に自分の財布から幾許かを貸し与へた末、善い潮加減を見計らって「時に姉さん、今日まで立替へたお金は什うしてくれるネ」と畳みかけ、女が当惑する處へ「それぢや一層一時斯うしてくれたら」と徐ろに醜業を勧めるのである。そして斯うした幕になる頃には、恐ろしい兄哥達も登場して来て脅かし文句と親切ごかしの言葉とで到頭陥落させて了ふのだと云ふ。
 叉大阪新世界派出所詰の巡査の話ではこんな事もあった。何某といふ博徒は以前廣田町に住まってゐたが、その頃同町附近のさる店から品物を買って何圓かの代金が掛になってゐた。で、その年の末になって、その店の娘がその掛を取りに行くと彼は既に飛田へ引越して居たので、その娘も序でにその引越先へ掛をとりに行った。すると博徒は快く娘を迎へて、代は直ぐ払ふから兎に角二階へ上ってくれといった。娘はもとより件の博徒に悪だくみなどのあらうとは露知らぬので、何気なく二階に上って待ってゐると、何時まで経っても掛をくれぬのみか誰も二階へ上っては来ない。ハテ、不思議と、何とかく胸さはぎのする儘に降りて行かうとすると南無三、時は既に遅かった。二階の梯子は何時の間にか取外されてゐる。それのみか隣室からは怖ろしい顔をした男が現はれて、声を立てれば之だぞと兇器を翻すのであった。娘は泣くにも泣けず、喚こうにも喚かれず進退茲にきわまるに至った。之が小説ならば此處等あたりで侠客かそれとも巡査が出て来るのだが、実際にはそう巧くは行かなかった。斯くてその娘は掛取りに行ったその日から博徒の二階の一室に閉龍められ、博徒のなぐさみものにされた末、日を経て立派な私娼となって客を取るやうになった――巡査の話では、此の女はその後警官の手に捕へられて、家へ引渡されやうとしたが、どうしても家へは帰らぬと頑張って引続き淫賣をやってゐるといふ事である。



 


そして一度娼妓になった者が娼妓を続ける理由を次のように書いている。


然うだ。一度淪落のドン底に陥ちた者にとっては、私娼の足を洗ふ事は不可能である。乞食三日すればやめられぬと同じやうに、淫売三日すればやめられぬのである。一種の興味も添はるのだらうが、夫れよりも順応性が働いて恥を恥とせぬやうになり、彼女自身が既に肉体的にも精神的にも立派な淫賣婦になって、最早真人間に復活する事が出来なくなるのである。故に彼等は好んで淫賣を営んでゐるやうに見えるのである。






私娼ではなく「公娼」についても「貧困と無智に乗じ、甘言を以てこれをあざむいて」いる例を述べている。

然し私娼における如く殆ど暴力的に女を強制する事はないにしても、周旋人なるものが女の家の貧困と無智に乗じ、甘言を以てこれをあざむいてうまうまと引張り出す点は、矢張り陥穿といはねばならぬ。救世軍の伊藤秀吉氏は此の間の消息を次の如く面白く記してゐる。
 「周旋業者が僻地に入り込んで、年頃の娘のゐる家でそれが繼子であるとか、片親が欠けてゐるとか、親兄弟が病気で困ってゐるとか、極貧にして窮乏してゐるといふやうな家庭に巧みにつけ入って、娼妓生活の安逸愉快なること「紅白粉をつけて絹物づくしで日夜面白可笑しく過される。やがては玉の輿に乗って同夫人になり済まし、故郷に錦も飾れやう。隣村の誰さん、向山の某さんは何れも今ではお大臣様で栄耀栄華の身の上だ。肥田子担いでで真黒になって汗水垂らしてゐるも一生、遊んで暮すも一生ではないか。第一親の病気を助け、月々の仕送りもして左團扇で暮させたら、こんな親孝行はあるまひ」と勧め、親へは「此の貧乏の中に千圓貳千圓と云ふ大金が這入って、明日から水呑百姓が一足飛びに地主様になれる。医薬の代に困ってゐるなら町に出て良医の許に入院も出来る。治らぬと思った病気も治り命は助かり長生きが出来るのも此の天から授かる金を受くるか否かにある。何も娘を殺さうといふ訳ではなく、昔から廓御殿は出世奉公といふ位、斯ういふ立派な處に行くんだ」と絵ハガキなどを出して見せたりして勧められ、生れて一度も握った事のない纒まった金を握ったらああもし、かうもしてと胸算用を始め、とうとう慾に目がくらんで、それではよろしく頼むといふやうなことになる。甚だしいのになると始めから娼妓にするとは云はず、さる高貴のお邸への奉公であるとか、大臣様の出入なさる大料理店の給仕で、心配なことではないといふ様なことで、盲目判を押させ、白紙の委任状にまで判を押させて、五百圓千圓といふ金を渡され娘を伴れて行かれて、その金に手をつけた後で、女郎屋であったかと驚いても苦情の出しやうもなく、結局泣き寝入りになる事も往々にしてある。
 Aと云ふ女中は斯うして誘拐された。A女は突然主家から暇を乞ふて去った。萬事は親切な屑屋のおぢさんの世話で、某所の判任官と結婚するといふのであった。然るにその判任官といふのは真赤な嘘で、それは或る桂庵の主人であった。結婚したのは事実であったが、結婚して五日目彼女は離婚されて了ったのである。今更面目なくて主家へは帰られず、男には捨てられて途方に暮れてゐる時に、叉親切な車屋さんが現れて、某所の妓楼に前借五百圓で賣られたのである。親切な屑屋さんも親切な車屋さん夫婦も、実は桂庵と共謀して、始めから此の無智な少女を誘拐するための必要な劇中の人々であったのだった。」                               (「日本の公娼制度」廿一頁)

 


 之等は私娼の場合の如く脅迫こそ伴はないが、最初から事を謀って女を陥れたものであって見れば、矢張り他人の陥穿によるものといって差支ない。甘言を以て欺く以上、女の同意は同意とはいへない。大阪の方面委員の関係したものを年報によって拾って見るといろいろとある。先づ悪周旋人にひっかかった例としては次の如きがある。

 台湾長屋と云ふ有名な貧民長屋に住んでゐた某は、或る夜暴風の為め長屋が倒れて其の際腰を打って三日目に死亡した。それでその妻は三歳になる男の子を伴れて女手一つで貧しい暮しを続けてゐた處、その子が病気して入院しなければならなくなった。病気の経過は思はしくなく右腕を切断したりしたので、その為に相当負債も出来、どうにも生活が出来ないので本庄横道町に芸妓紹介人をしてゐる某と云ふ者をたよって行った。そしてすすめられる儘に、その男の子の身の上を案じつつも呉旭遊廓に五年半五百円の前借で身を賣った。五百圓のうち貳百圓は本人が身のまはりのものを整へる為に費って了ひ、残る參百圓は子供の養育料として件の紹介人にあづけた處、その紹介人は子供を家へ放った儘逐電して了って、どこか九州の炭坑にゐるといふ事しか判らなかった。                         (「方面委員大正十三年々報」三四九頁)

 之などは全く悪周旋屋の喰物になったものに相違ない。叉先年大阪天満合同紡績の社宅二百五十許りの中から娼妓稼ぎに出てゐるもの凡そ三十名の多きを数へた事があった。その中でも家庭が貧困で、親が病気と云ふやうに事実生計の苦しさから身を賣ったものは未だしもの事、親が極道で金さへあれば博奕を打ち、酒を呑み、遊んでで暮すと云ふやうな状態から身を沈ませられた娘の数が案外にも多いのに不審を打った方面委員が善く調べて見ると、此の社宅の根城とする周旋人がゐて、絶えず娘のある家を窺ひ、病人が出来て困ってゐる場合などは逸早く馳せつけて親切さうに金を貸し与へ徐ろに種子を蒔いておいて貸金の返済の不可能となるや時分はよしと、いや応なしに娘を賣らしめるのである事が判明した。
            (「方面委員十四年年報」一三五頁)



パリの公娼が年々減少し、1903年には、387戸にまで減少したと述べており、それと日本における繁栄ぶりを比較している。
勿論この遊廓制度はわが國独特のものではないが、諸外國においては暫時衰滅の過程を辿ってゐるのに、独りわが國のみは六百に近い遊廓を保持し、そこに五萬人を超ゆる娼妓を抱えてゐて、年々四千萬人近くの標客を迎へて、少しも減退の気色を見ないのが世界の注目の的となってゐるのである。



せっかく、娼妓解放令が出たのに、すぐにそれは無意味なものとなり、

然るに実際に於て、娼妓は楼主の雇人たるのみか、奴隷の如く酷使されてゐる。或る貸座敷では、娼妓から座敷料を立派に徴収してゐるにも拘らず、折檻と称して客のつかぬ妓を廊下に寝かせた例さへある。これでは、昔時の奴隷と奴隷所有の関係と寸毫も異る所がない。

と書いている。