朴裕河の唱える「慰安婦」論説の問題点(2)朴裕河のいう「隠蔽」の嘘
朴裕河論説の問題点の一つは、使う言葉が狂っていることである。
すでに<THE HUFFINGTON POST 日本語版2015年01月06日>の中で「構造的には敵対的共犯」「売春差別への意識への自覚」「同志的関係」・・・・などのよく意味の分からない言葉が前後に何の説明もなく使われていることを指摘した。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64881876.html
「敵対的共犯」というのならば、その共犯関係をちゃんと証明しなければならないし、「売春差別への意識への自覚」とは一体何を意味しているのか?ぜひ示してほしいものである。
「同志的関係」という言葉も含めてこれらの造語に近いものを使うのが、彼女の特質の一つである。
「これまで元慰安婦の本当の声は隠蔽されてきた。ゆえに私は元慰安婦の声にひたすら耳を傾けた」というのが、朴裕河の主張であり、そこから「慰安婦たちは、性奴隷というべきものではなく、同志的関係であった」という論説が展開している。
しかし、この「隠蔽」は、通常の概念における隠蔽を意味しない。
①
②しかし、彼女たちには大切だったはずのその記憶は、彼女たち自身によって「全部捨て」られるようになる。その理由は(それを)「もっていると問題になるかもしれないから」である。その記憶を隠蔽しようとしたのは、まずは当事者たちー彼女たち自身であった。(p83)
③しかし、挺対協の慰安婦理解は、そのような植民地の複雑な側面を隠蔽してしまう。(p144)
「隠蔽」とは、「ある物を他の物で覆い隠すこと」である。http://www.weblio.jp/content/%E9%9A%A0%E8%94%BDしかし、『帝国の慰安婦』の中で使われている「隠蔽」はそういう意味にはならない。なぜなら、全てすでに公開されている情報だからである。
たとえば、挺対協がハルモニ(元慰安婦)たちの証言を聞きとって、自分たちに都合の悪い部分を本には掲載しなかったとしたら、それは「隠蔽」かもしれない。
しかし、そのような事実は無い。朴裕河のいう慰安婦と軍人の交情の記憶も、ちゃんと記録され、挺対協が市販している本の中に収まっているからである。記録され一般公開されている以上、それを「隠蔽である」という指摘は”言いがかり”以外のものではない。朴裕河自身が、挺対協の発行した証言集に依拠しながら、「挺対協が隠蔽した」という不思議な事をやっているのはどうしたことか。
それのどこが「隠蔽」なのであろうか?
書かれ、記録され、一般公開されている被害者の証言がなぜ「隠蔽」なのか?
この「隠蔽」という言葉は一つのキィワードになっている。
「・・・隠蔽されている。・・・だから私は女性たちの声にひたすら耳を澄ませ・・・・改めて聞こうと思った」と自分の立場と論説を美化しているからである。
しかし、「隠蔽」などと言えるものはどこにも存在しておらず、ただの詭弁というしかない。あるいは”文学的表現”なのだろうか?
朴裕河の概念定義の無知は「性奴隷」という言葉に関しても言える。これについてはまた近い内にメモを作成しておこうと思う。