アジア女性基金の歴史を振り返る
<アジア女性基金>が失敗したのは、韓国の支援団体である「挺対協」が、ジャマをしたからだ、という主張が宣伝されている。
しかし、それは彼らが勝手に造ったストーリーにすぎない。
当時の経過を振り返ってみよう。
まず知っておくべきなのは、基金が設立される前から、反対や懸念の声が多くあったことであり、それは韓国だけではなく、フィリピンや台湾でも激しく声があがっていた。
<アジア女性基金設立前から湧きおこっていた被害者たちと
支援団体のの反発の声>
アジア女性基金が発足する前から、支援団体と被害者たちは、日本政府に対して、反対の声明を出していた。
大沼たちはまるで韓国だけが受け取りを拒否したようなことを言うが、まずそれが間違いであり、フィリピンや台湾でも、公式に謝罪と補償をしない日本政府に反発が広範に広がっていた。
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② 東京新聞1995年10月31日
和田春樹ら4人が、韓国の支援団体の4人に「アジア女性基金」への理解を求める文書を送ったが、その返事では
「先生方がおっしゃるように、日本の現実が、基金以外は望みがないというのは、正直なところでしょう。しかし、私たちはむしろ、日本の政治、社会的な現実が、そうした雰囲気であるからこそ、ためらうのも事実なのです。」と率直なところを述べている。
当時の政権与党の一角であった自民党の中に、「歴史修正主義」が台頭し、日本がした悪業に対して、謝罪や国家補償をする事に強く反発していたからである。1995年の7月ーつまり「アジア女性基金」が発足する直前には、自民の「歴史検討委員会」が『大東亜戦争戦争の総括』(展転社)を出版し、
○「加害・戦争犯罪はなかった」という妄想を総括していた。
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③ 朝日1995年11月11日
政府が「償い」を目的に提唱した「アジア女性基金」に対して、支援団体が公開討論会が開いたが、基金側からは和田春樹教授だけが参加したという話である。「国家補償が必要」という点では一致していたが、具体的な方法で一致しなかったという。
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④朝日新聞1996年5月20日
○新聞広告で3億3千万円を使ったが、集まったのは3億4千万円だったという。
(1995年8月15日の朝、村山談話が発表されたまさにその日、基金の呼びかけ人による「よびかけ文」と村山総理の「ごあいさつ」が、全国紙6紙に全面広告の形で発表された。この広告において「基金は政府と国民の協力で」というスローガンが掲げられたが、広告費と同額しか集まらなかった。最終的に集まったのは6億あまり)
○1996年5月16日には、マニラの日本大使館の前で、「基金は被害者の名誉と尊厳を傷つける」というデモが起こり、89名の元慰安婦が「基金を受け取らない」という声明を出したという。(このころフィリピン人元慰安婦46人が謝罪と補償を求め東京地裁に訴えていた)
○支援団体のリラピリピーナは、「最終的には本人が決めること・・・」という見解を出している。
○歴史検討委員会に所属していた橋本首相は「謝罪文を書くこと」を嫌がっていたので、「もう一度迫るべきだとこの記事は述べている。
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⑤読売新聞1996年5月18日
○読売も4月までに予定額(20億)の2割にも満たない3億3千万円しか集まっていないことを報道。
○フィリピンのフェルナンデスさんたちを支援するネリア・サンチョさんの「金の力でなんでも解決しようとする日本政府は許せない。。。」という談話
○坂本義和東大名誉教授の「積極的に個人補償を実行してきたドイツと対比で日本は批判され続けている」という談話を掲載している。