第7回吉見裁判参加記
2015、4,20
第7回吉見裁判参加記
1 並んで 始まった・・・
地下鉄から出るとパラパラと霧雨が降っていた。
久しぶりの東京地裁とは言え、何度も通った道のりなのになぜか出口を間違えてしまい、濡れないように急ぎ足で交差点を渡る。知った顔の人がビラを配っているが、誰かは思い出せない。一時前に到着した。整理票を受け取り、ほっと一息ついていると後ろから知人が声をかけてきた。しばらく情報交換をしていると時間が来たらしく人ごみが動き始める。
前回200人が並んだが、今回はそれより少なかったようだ。90人強しか入れないが私は確かめるまでもなく当選している。クジ運が悪いので有名な私だが、なぜかこの手の裁判で抽選が外れることはめったにないからだ。
一番後ろの席に腰をかけた。全員の動きが知りたかったからだ。この日、心なしか桜内応援団に活気が無かったのは雨のせいばかりとは言えまい。全体的に押されているからだ。人間というものは、自分が正しいと思っていれば力がでるものである。善悪は人の観念の問題だが、その観念という奴がくせもので、フロイド達が催眠術で見出したように、心の中に宿る観念によって人は身体的な影響さえ受け命を失うことさえある。非真実をなす者も、一時的には活力がある。しかし、やがてその道が悪に通じていることを知る時期になると活力を失って行く運命にあるのだ。
阿部浩己教授は、国際法学者として有名ある。神奈川大学教授。NPO法人ヒューマンライツナウの理事長でもある。今回阿部教授が法廷に提出した意見書は、かなりのできばえだった。
2、 性奴隷制度とは何か?
19世紀のはじめごろから西洋社会では、奴隷制度撤廃の波が訪れていた。1815年の奴隷貿易廃止について諸国宣言、1885年ブルリン会議議定書、1919年のサンジェルマン条約を経て、1922年から奴隷制条約制定の努力が始まる。そして長い努力は1926年に実ることになる。最大の功労者は、セシル子爵だろう。彼は条約の起草過程で、法律に制定されたものばかりではなく、「慣習」の次元にも目を向けていた。そのため、奴隷制の要件には「所有権」そのものではなく、「所有権にともなう権限」と書かれている。(意見書の部分を要約しています)
この部分は尋問に立った被告(桜内)代理人のA弁護士が「どうもよく分からない」と述べていた部分だが、非常に簡単である。要するに、「法制化」されなくても「慣習」としての奴隷制を考慮した表現になっているのだ。そして、日本の遊郭の公娼制度は、この「慣習」としての奴隷制ということになるだろう。
奴隷制条約の第一条第一項を満たしているからだ。
奴隷制条約の第一条第一項
「奴隷制とは、所有権に伴ういづれか若しくは全ての権限が行使される者の地位または状態を言う」(Slavery is the status or condition of a person over whom any or all of the powers attaching to the right of ownership are exercised.)
この条文は、セシル子爵が原文をつくり、数名がそれをまるで刀鍛冶が鉄を叩くように、長い時間をかけて叩き上げ造り上げた。簡潔であり美しい。20世紀に人類が到達しえた英知の結集であり、この言葉に込められた祈りのようなものを感じることができる。
さてすでにこのブログには、奴隷制条約について何度か述べている。例えば、
また奴隷制の実態についても、いくらか考察して来た。
これらを読んだ人は、米国の奴隷制度の中には、金銭を受け取っていた者もいたり、恋愛、結婚もしていたことを理解したはずである。今回阿部教授の意見書にも、金銭を得ていたオーストラリアの性奴隷裁判の事例が示されていた。この裁判で「性奴隷制被害者」と認定された女性たちは、4~6か月に900人の客を取らされた点でも日本軍「慰安婦」の女性たちと酷似している。5人のタイ女性たちは、債務(前借金)返済のために、メルボルンで売春を強要されていた。売春宿に施錠され閉じ込められていたわけではなく、言葉が分からないから逃げられなかったのだ。衣食を保障されていたがパスポートは取り上げられていた。外出は主人とともにでなければ許されなかった。売春強要は週に6日であり、1日は休暇をとることができた。休日に売春をすれば現金収入を得ることができた。その点だけは日本軍慰安婦よりも条件がよかったのである。休むかどうかを自分で決められたからである。
これが「性奴隷」に該当するかどうか?を争い、オーストラリア連邦裁判所は、「所有権を伴ういずれかまたは全ての権限行使」の詳細な検討をしなければならなかった。つまり、1926年の奴隷制条約が今も生きているのである。
さて、これに対して、被告側は桜内氏自身が尋問に立った・・・・何としても阿部教授を退けなければならないからだ。
(つづく)