河野談話を守る会のブログ2

ヤフーブログ閉鎖のため移住しました

(続き)第7回吉見裁判参加記



<第7回吉見裁判参加記>


            3、彼らはなぜ演説するのか?


被告席から 阿部浩教授に対して、最初に尋問したのは桜内被告本人だった。まず桜内被告は阿部教授に「博士号を取ったのはいつか?」を尋ねた。 阿部教授は、「2011年です」と答えた。
質問の意図は誰でも予測がつく。できるだけ、教授の権威を落としたいのだろう。確かに2011年はつい最近の話だ。しかし阿部教授の世代の法学者は博士号を若くしてとるということはなかったそうだ。

保守王子になるはずが、選挙に落ちた上にここで負ければ踏んだり蹴ったりだ。そんな思いが「本人尋問」という道を選ばせたのかも知れない。「・・・私が違和感を持った点です・・・・これは政治問題なんですよ、おそらく・・・・」尋問はそっちのけで、自分の意見を滔々と述べ始める。

ネトウヨたちはしばしば、言いたいことを演説して去っていく。こうしたブログ記事に対してもその記事の感想を書けばまだしも、まるで関係ないことを長々と書き残す。”暇な連中だ”と感心するが、白い壁に描いた卑猥なラクガキ程度の負の価値しかないので、たいていは消すことにしている。

しかし驚いたことにこの裁判では、やはり裁判のテーマに無関係なラクガキのような尋問・・・・というより演説がなされた。

被告代理人A弁護士は、「日本の歴史には奴隷がいない」というどこかで聞いたような考えを裁判中に披露した。(このA弁護士は確か特派員協会の会見でも演説していたような)どんな流れでそんなことを言ったのか?またそれが阿部氏にどんな関係があるのか?も不明である。

この「奴隷は無かった」についてはすでにここで反論してある。「日本史に奴隷がいない」などというヨタ話を信じる人間もどこかにいるのだろうが。


さらに次に3分だけとか言って出てきた被告代理人O弁護士は、「日本軍は強姦が一番少ないという事はご存じか?」と阿部教授に聞いていた。思わず漫才師のようにずっこけそうになる。
これもまた桜Hの水島氏あたりがよく唱えている根拠のない主張である。国際法の権威になぜそんな意見書に無関係な質問をするのか?自体もわからないが、「日本軍は強姦が一番少ない」などという一種の神話みたい事をまるで事実のように裁判の場で吹聴するというなかなか見られないことが起こっていた。正確なことは、いづれ裁判記録を取り寄せるつもりだが、あまりの知性の劣化に声を失ってしまう。

「強姦」についても、このブログで記事にしている。

裁判官や原告代理人から、「質問をしてください」とか「もう結構」とか制止されながらも彼らが演説を続けるようなシーンが展開していた。私は、珍しい裁判だなと思っていた。会場からはざわめきが聞こえていた。桜内氏への尋問タイムには、さらにそのざわめきも大きくなったし、被告は「性奴隷と言っているのは共産党」とか「吉見原告がでっちあげた」と主張していた。質問には答えず、自分の言いたいことを言っていた。それで満足したのだろうか?


         4、言いたい事を言える「カースト」上位者

中西新太郎氏(横浜市立大学名誉教授)は、若者たちのカーストの中では、周囲に対して自分が自由に意思表明できる事が「カースト」の上で上位をしめる、と述べている。自分が述べている主張の真実性が問題なのではなく、”自分がいろいろと言える立場にいるから勝てる”という点がより重要なのだという。つまりは、自分のポジションが上がると感じるので、ネトウヨはネット上での罵倒を繰り返すのである。
『「慰安婦」パッシングを越えて』p155)
これは、劣等感コンプレックスに対する補償の原理であるとも言える。

しかし、考えてみれば、自由に意思表明できる事が「カースト」の上で上位をしめているのは何も若者だけではないだろう。
例えば、上司とお酒を飲めば、たいていの場合部下が言いたいことを言えるわけではない。そういうわけでこの手の「カースト」は、若者だけではなく日本社会全体に言えることなのである。この社会全体がたえずマウンティング・ポーズを求められるニホンザルの階級社会に似ていると思うのは私だけではないだろう。特に安倍首相が国会で言いたいことを言っている姿を見ると、サルの世界のボスに見えてしまうのだ。

それはともかくとして、裁判の流れに関係なく、「日本の歴史には奴隷がいない」とか「日本軍は強姦が一番少ないという事はご存じか?」とか言いたい事を述べていた彼らは自分の優位を錯覚したのではないかと思われる。言いたいことが言えた→だから勝ったという思い込みである。そう思いたいがために演説したのだろう。しかし何を争っているか?分かっているのだろうか?そもそも裁判は言いたいことを言う場ではないだろうに。




   5、主な争いは”「慰安婦」は性奴隷制度か否か?”ではない

この裁判は名誉棄損か否かを争う裁判である。慰安婦」は性奴隷制度か否か?を直接の争点にしているわけではない。裁判所が学説の真偽を決定することはできない。そんなことは最初から分かっていることなのだ。ましてや「日本軍は強姦が一番少ない」とか「日本の歴史には奴隷がいない」という青年の主張をする場でもない。
被告サイドが証明しなければならないのは、「吉見が知っていながら、虚偽を唱えた」という被告自身が被告答弁書で述べた主張である。ところがそれはできそうにない。そこで一生懸命、慰安婦」は性奴隷制度か否か?論争にしようとしている。

自分が名誉棄損で訴えられているのに、それを無視して「性奴隷学説論争裁判」として位置づけ「断じて許すわけにはいかない」とか書面で攻撃するのは、甚だ不見識だと思うが、それは「カースト」上で優位に立とうとする習性なのだろう。しかし彼らの慰安婦論自体がもはや慰安婦と関係ないヤスクニストの世界観の歪みを表明するだけになっている。

原告側が呼んだ阿部教授は慰安婦」は性奴隷制度か否か?を直接の争点にしているわけではない」事を心得て答弁していた。しかし次回、登場するはずの被告側参考人秦郁彦氏は、まったくこれを心得てなさそうである。おそらく被告の尋問では朴裕河論説やらを交えながら自説を開陳しようとするだろう。しかし尋問で、原告代理人に痛いところを突かれて顔を真っ赤にするのではないか、と今から心配である。

裁判が終わるころ、一時雨はやんだのだが、やがて本降りになった。この裁判もまた本降りになるのだろうか?