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地獄の戦場と化した―ニューギニアの慰安所について



昔、週刊朝日がニューギニアの慰安婦問題(平成9年10月17日号)
について書いていた。慰安婦問題というよりも、強姦問題が主だろう
が、実は私はニューギニア慰安婦について特殊な情報は何も持っ
ていない。直接被害者の話を聞いたことがないからだ。ここでいう
アン・ジャヤ州からなるニューギニア島全体と周辺の島々の事であ
る。平坦な草地、豊かなマングローブの林、沼地と多くの火山島、
帯植物が生い茂り、時折強烈なスコールがやって来るのがこの辺り
である。食べるものも多そうだが、日本軍にとってニューギニア戦線
は飢えとマラリアが支配した過酷な戦場で、「ジャワの極楽、ビルマ
の地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と謡われたほどであった。熱
帯なのに案外食べ物は無かったと飯田進の証言もある。

  さらば ラバウルよ また來るまでは しばし 別れの 涙がにじむ 
  戀し懷し あの島 見れば 椰子の 葉かげに 十字星

の歌詞で有名なラバウル小唄』(作詞:若杉雄三郎  作曲:島口駒
夫の)は、直接戦争を知らない人間でも知っている。このラバウル
あったのはパプアニューギニア・ニューブリテン島の東側であり、ラ
バウル航空隊の基地(ラバウル要塞)には9万余の日本兵ニュー
ギニアソロモン諸島、そしてオーストラリアを睨んでいた。

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水木しげるラバウル戦記』に登場する慰安所があった街ココボ
ラバウル南20Kmのところにあり、日本軍の飛行場があった。


まずここから見てみよう。

              ココボの慰安所

上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか一〇三兵站病院もあり従 慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜とか祭日にお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした水木しげるラバウル戦記』p30)



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                               (『総員玉砕せよ!』p14.15)

その他水木しげる作品は、
などで

                ラバウル慰安所

ラバウル慰安所記録は以下のようなものだ。

 高畠喜次 『ブーゲンビル戦記』 1978
 
1942、1月
 
「頭は手ぬぐいで姉さんかぶり、戦地に似合わない派手な色彩に添えて、大掃除よろしく、5,6人の女たちが立ち働いているのでおかしいとは思ったが、特用倉庫員だと聞かされた。占領と同時にサイパンからやってきたという。」
 
*特用倉庫員=海軍では慰安婦をそう呼んだ。
 
「出入り口のところに海軍特用倉庫の看板があり、高札が掲げられている。
  海軍特用倉庫 
  1、下士官兵の使用時間は午前9時より、午後4時までとす
  1、一回の使用料、1金壱円弐拾銭
などと書いてあった」
 
「・・・見張り員が変な声を発した。貨物船に大勢の女群を発見したのである。これはトラック島に集結していた特用倉庫員の緊急輸送でラバウル占領以来、あの地には日本の女性はひとりもいないのであってラバウルへ女と油、作戦に重要な贈り物であった。」
 



 菅野茂 『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』 光人社,2005

ウェワクからラバウルに帰還した

 「帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。……メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる女たちの一団(十五、六名)が休息していた。大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
 なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。」
 
 


 岡本信男  ラバウルの落日』 1975
 
 
1943
 
「・・・・朝鮮の女がほとんどで一部沖縄の女ということだった」
 
「入り口の外にはずらりと兵たちが列をつくって、順番を待っているのには度肝を抜かれた」
 
 「カーテンをまくって入ると何とも不快な汚臭が鼻をついた。無表情そのものの「かの女」がやせた土色の全裸を投げ出して、ふてくされたように椰子の羽の扇子をつかっている。」
 
特殊任務部隊である第六野憲兵の一員であった松田 才二が書いた『孤鷹の眼―随筆戦陣余話 』 (1993/12/25 )によれば、ラバウルでの慰安所は1943年の時点で、300人の女性がいたという。

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         ニューギニア島慰安所は?

日本軍は侵攻したほとんどの土地で慰安所を造った。
しかし東部ニューギニアの場合は元兵士の証言としては今日まで確認さ
れていないという。

技術史専門の奥村正二は『戦場パプアニューギェア』(中公文庫)で

戦後四十数年して、朝鮮人従軍慰安婦問題と日本政府の係わりが明らかにされた。だが、ニューギニア戦線には無縁のことである。東部にも西部にも慰安婦は一人もいなかった。(略)兵隊とパプア女性との間には性的接触が全くなかったようだ。これに類する話は聞いたことがない。当時のパプア女性は例外なく熱帯性皮膚病に侵されていた。そのうえ蚊除けのため特異な臭いの植物油を体に塗っていた。これらが、兵隊除けにも作用したのだろう。

と述べている。

これは、主に現地の方々を慰安婦にしたか?どうか、あるいは強姦し
たか?どうか、という問題だが、慰安所を造る場合、現地で集める以
外に朝鮮・台湾・日本などから連れていくケースが多い。しかし、元軍
人の話ではニューギニア島には植民地や内地から連れてきた慰安婦
を置いた慰安所自体が無かったという。

この点ではニューギニア戦線の体験者の証言は一致しているようだ。
『正論』99年2月号で田辺敏雄が生還者31人に聞いた調査では、全
員が慰安所の存在を否定しているという。(この自称「現代史家」田辺敏
雄が自由主義史観研究会と行動をともにしていることは知っておくべきだろう
http://ironna.jp/article/518このURLの記述の問題点もありそうだ。


また補給基地となっていたウエワクの陸軍主計中尉針谷和男によれ
ば「女性と言えば看護婦さんが数人いただけ」だという。(慰安婦と戦
場の性』p319、針谷和男『ウエワク』(1982))


あのミクロネシアの小さな島・ポナペ(ポンペイ)にさえ、慰安所があっ
たという元兵士の証言があり(下注)、「地獄」と言われたビルマでも多数
慰安所があって栄えていた上に、お隣のニューブリテンラバウル
には慰安所があったが、なぜか14万人の兵士が参加した東部ニューギニ
ア島に慰安所が無かったという話になる。確かに大変な戦場だが、補給
地などには慰安所または「慰安婦状態にした女性」を囲うのが、皇軍
のパターンだが。

   戦友会等による「事実隠し」の結託の可能性はどの程度あるか?

日本兵には、日本兵同志の特殊なつながりがあり、1000人の元
日本兵にヒヤリング調査をしたという保坂正康は、
①戦友会の役割として大本営の作戦を否定しないように、かつての
将校が見張っている
②意図的に嘘をつく人がいる
③人間は意図的にではなく、記憶を美化し、操作する傾向をもつ・・・な
どを指摘している。『知らないと恥ずかしい日本の戦争常識のウソ』
p265~p275)
こうした悪事の隠蔽工作はよく知られている話である。

ゆえに元兵士の話だからと言って、単純に信用するわけにはいか
ない。証言が歪まされ、「慰安婦」「慰安所」に触れることがタブーに
なっている可能性もあるからだ。
しかし、生き残った人も1万人以上いて、これだけの人数が全員嘘を
つき通すとは思われない。何人かが結託しても、必ず秘密をもらす
人間がでてくるはずだからである。

ニューギニアで戦い「人肉食」を証言している飯田進も「慰安所
あった」とは述べていない。

著作は『地獄の日本兵ニューギニア戦線の真相』、『魂鎮への道』など

著者紹介;飯田進
1923(大正12)年京都府生まれ。昭和18年1月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。終戦後、BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。昭和25年スガモ・プリズンに送還。社会福祉法人「新生会」と同「青い鳥」の理事長を長年務めた。(現在は会長)著書に『魂鎮への道』など。


            まとめ
ニューギニア島東部に果たして、慰安所があったか否か?この問題につ
いてはいづれは総合的な見解をまとめておく必要があるだろう。



(全敬称略)




秋田武彦 『ポナペ島戦記』 1981
 
ポナペ島
 
1943
 
「・・・『大海楼』は下士官用の慰安婦がいた。彼女たちは沖縄の女性だった。また『清波荘』には主として
兵士用の女がいて、こちらは朝鮮人女性がいた」