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東向島・玉の井遊郭街を考える


  「貸座敷外の売淫行為は違反」とされていたはずの戦前の法体系

戦前の日本には公娼制度があった。公娼制度があったということは、私娼は禁止されていたということである。

1935年、来る廃娼の波に危機感を募らせた遊郭業者は『全国貸座敷総合会臨時大会記録』でを開いて廃娼運動に抵抗した。その時「公娼は我が国体に立脚して、神の御威光の下に定められたる制度である。」「(廃娼は)国家を毒するユダヤ思想」と毒々しい演説をしたのが小島光枝だったhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64489695.htmlその小島の書いている『売笑問題と女性』(p55)が「貸座敷外の売淫行為は警察犯処罰令第一条第一号違反」「30日未満の抑留、または30円以上100円以下の罰金」と書いていたので、これを追ってみよう。


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(『売笑問題と女性』p55)
(この作者の意見である「各港から山間の都市に至るまで風紀は一層乱れ、婦女の一人歩きすらもできない状態になりましたので時の政府は前借金制度の下に新たな規則を設けて・・・」というのは、公娼制度を擁護するための造り話であろう。)

そしてその警察犯処罰令について書いてあるのがこちら。      
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警察犯処罰令というのは、微罪は裁判を経ずに警察が勝手に判断して処罰するという法律である。

従来は罪の裁決は大日本帝国憲法14条が定めるように、旧刑事訴訟法にもとづいて裁判官がやるべき仕事である。しかし、刑法上の微罪であると考えられた犯罪に対しては、「警察署長、分署長またはその代理官は違警罪を即決できる」という違警罪即決例明治18年9月24日太政官布告第31号)が定められている。

警察が大きな権限をもっていた戦前の警察国家らしい法律だったわけだが、ここで問題となるのは、戦前の社会では、いわいる玉の井や浅草十二階下千束の白首などの有名な私娼街があったということである。私娼なのだから当然のことながら「貸座敷」として認可されているわけではない。

永井荷風高見順田村隆一尾崎士郎太宰治徳田秋声室生犀星高村光太郎北原白秋などが訪れてこの私娼街を愛したという。永井荷風断腸亭日乗『寺じまの記』、『濹東綺譚』で戦前の玉の井遊郭を描いており、それ以前の1932年(昭和7)には、『女魔の怪窟 : 昭和奇観苦心探険』(墨堤隠士著) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1137740などにも書かれている。かなり有名な遊郭街だったのである。

この有名な私娼街について警察が知らないはずがない。にもかかわらず、永く存続し続けている。戦前の法体系でも「貸座敷外の売淫行為は違反」なのに・・・である。

どうして、玉の井遊郭街は存続できたのだろうか?

それは、取り締まるはずの警察が目こぼししていたからである。警察国家の本当の怖さは、ある相手には取り締まっても、別の相手は同じ罪状でも取り締まらないことにより、警察が恫喝含みの力を増大させることにある。業者はお目こぼしを願うあまり、政治家や警察上層部につけとどけを欠かさないであろうし、職権は乱用され、人々は不公平な世の中に苦しむことになる。

さて軍慰安婦の大量動員が始まる少し前(1937年11月)の話だが、陸軍省の役人が玉の井、亀戸などの遊郭業者を集めて、慰安所施設の開設を要請したことがあった。「派遣地帯はとりあえず上海を起点とする中支方面、住居は軍が準備するし、食事の給与その他移動に関しては全て軍要員に準じてこれを行います。」という。そこで玉の井の国井茂は翌1月には53人の娼妓と共に上海に渡ったという。(大林清玉の井晩歌』1983、194~239)(『共同研究日本軍慰安婦p76,77、95「第4章中国における徴集と慰安所の展開」藤井忠俊

国家として、「微罪」とみなされていたとは言え、法律違反であるはずの私娼さえ認めてしまっているのである。

一体、日本とはどういう国なのか?我々は考え直す必要があるのだろう。

このシリーズではこの辺も頭に入れて調査して行こうと思っている。






椎名龍徳著『病める社会』先進社、1929年発行。著者は、当時、東京で小学校長をしていた。
昭和3年。
「昭和3年5月11日の東京日々新聞の朝刊をご覧になったお方は、『高松宮殿下の御慈愛』と題して」「次のような記事のあった事を、なお記憶しておられるであろう」「『練習艦八雲の第三分隊士として御乗組み遊ばされ、今し遠洋航海中におわします海軍中尉高松宮宣仁親王殿下の、臣士に対する御慈愛は、まことに恐懼の極みであると拝聞するが、最近、殿下には御配下にある一水兵の妹が貧困なる家庭の犠牲となり、當に淪落の淵に沈まんとする哀れな事情を聴かせ給い、畏くも石川同宮家事務官に御命じになり、救わせ給うた御美徳は、まことにわれ等国民の感激措く能わざる処である。しかして此の尊き御手に救われた女性、柳田きえは、10日午後9時30分上野駅発で、感謝の涙に咽びつつ、郷里秋田県土崎に送り返された――』」
「(事務官の)石川岩吉先生は、私にとっては国学院大学に在学した頃の恩師である関係から」「先生は殿下の御意志を私に語りながら、『府下寺島町3650、野村金造(原注・仮名)方柳田きえ〔18歳〕前借金225円』と鉛筆で認めた紙切れを示された。『これが殿下のお調べですが、一応事実を調査されて、甚だしく堕落しておらぬようでしたら、救済してやりたいとの思召しですから、1日も早く調べていただきたいと思います。遠洋航海から帰るまでに、救う事が出来たら、柳田も喜ぶであろうからと、殿下もそう申されておられました――』」
「(貧困の実家を助けようと、柳田きえは)東京の堅気の家に奉公したのであったが、月に12円の給料では、とても5円の金も送る事はできなかった」「彼女は同家の近所に出入りする、前記寺島町の野村金蔵という、口の先で生活するもぐりの周旋屋、娘猟師の懐中に飛び込んだのであった。『一時に纏まった金を送ったなら、どんなに両親が喜ぶだろう』と、彼女は乗気になって国元の父に相談した」「単純な国の父は、200円の前借に感泣して、『親切な都の周旋屋』を三拝九拝して、娘の将来を懇願する書面と共に、前借の証文を送って来た。一切の相談は調って、4月6日、きえ女は野村に伴なわれて」「野村の所謂堅気な家、玉の井の◯◯屋という銘酒屋に連れられて行った」「(そこで)蒼くなった。肝をつぶした。然し気の付いた時には、既に彼女は前借の金網に動きも出来ぬ、籠の鳥となっていた」「4月16日」「が吉日であるからとて、客に接する事に定められたので、彼女は驚いてすくみ上がった」「『そんな約束ではない。殺されたって厭だ……』」「『そうだ、兄さんに相談してみよう』」「16日の朝髪結いに行くと称して」「兄のいる軍艦八雲を訪ねて、横須賀に走ったのであった。兄に面会して身の窮状を訴えたけれども、200円を越す大金を、一水兵の身で如何ともする事はできない。結局、泣き別れをした」「近侍の人々さえ知らなかった、この兄妹の悲劇を、殿下はどうして御存じになられたのであろう。兄の下宿まで海岸伝いに歩いた悲しげな2人の様子は、早くも甲板に立たれていた、殿下の御眼に止められたのであった」
「頼った兄に何ほどかの汽車賃を恵まれて、彼女はその足で土崎の家へ逃げ帰った」「(しかし)彼女より先に、玉の井からは捜索の人が来て、枯木のような父に厳談している最中であった」「純朴な親娘は、理屈に勝っても金に負けて、再びきえ女は玉の井に連れ戻されねばならなかった」「玉の井に戻ると間もなく、捜索の費用を加算されて、埼玉県大澤町のある料理屋に、400円で転売された」
「(著者は玉の井から調査を始め)5月7日にようやく大澤町に行っていると突き止めた」「(翌日、大澤町を管轄する)埼玉県越ヶ谷に警察署を訪ねた」「新井署長にきえ女の所在をたずねた」「署長は事務室に行って、やがて一通の書類を持ってきた。『ありましたよ。昨日酌婦の届けが出たばかりですから、まだ呼び出して調べてありません。川向こうの大澤の◯◯亭から出ておりますが――』との事であった。第二の問題は、果たして救う価値があるや否やという品性の調査である。私は署長に事情を打ち明けて相談した(高松宮の名前は伏せ、上官の依頼とした。署長は)『どうせ認可するには調べるのですから、早速呼び出して、あなたの前で調べてみましょう』。電話で呼び出し命令が出る」「小一時間も待たされた頃、40前後の主人らしい男に伴なわれて、華美な模様のメリンスの袷を着た田舎娘がやって来た」「署長は娘と共に応接室に入った。聴き取りの問答は2人の間に始まった。氏名年齢本籍などと型の如く進んで、『お前は好んで酌婦を志望して来たか?』『……』『今まで酌婦の経験があるか?』『……』。彼女は俯いて鼻汁をすすっていた」「『お前は酌婦になる事を承諾したのか?』と署長が質問した時に、果たしてどう答えるだろうと、私は注意深く彼女の態度を見守っていた。彼女は真赤に熱した顔をあげて、首肯いて承諾の旨を答えたが、眼の中はあふれるような涙であった。私は気の毒に思って『救って頂いてやろう』と決心した」「(主人と身請けの相談する)『前借金は何程になりますか?』と訊いて見た。男は『左様』と胸算用をしながら答えたのであった。『480円ほどになります』。私は思わず眼を丸くした。何という社会だろう。225円であった殿下の御調査が、僅か1か月もならない中に、倍より余分に殖えているとは。成程これでは浮かぶ瀬がないのも無理はないと思った。仕方がない。『先生に御相談してみよう』と、私は明日の再会を約して、大急ぎで東京へ引き返した」「(高輪の高松宮邸で石川に会い)いろいろ御報告申上げた結果、救済する事に決定して、私は宮家から慈恵金を頂いて帰った(翌日、きえは自由の身となる)」(59~83)