ビルマの日本軍慰安所(日本軍慰安所管理人の日記)を読む
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いくつか、整理しておこうと思っている。
日記は1943 - 44 年のビルマとシンガポールの慰安所の様子を教えてくれると同時に当時の韓国人の意識を教えてくれる。ただし東方遥拝をすんなりと受け入れているこの日記の作者のように皇軍に完全に順応していた人間は韓国人にはそれほど多くはなかっただろう。
1943年1月1日。作者はビルマのアキャブにいて、慰安所(勘八倶楽部)で目を覚ますと宮城遥拝をしている。「大東亜聖戦」「民草」「皇軍の武運長久」など、その時代の日本人が使っていた言葉が使われている。(「武運長久」という言葉は新藤兼人監督、大竹しのぶ主演作品『一枚のハガキ』という映画の中で、マニラ陸戦隊の集会挨拶に使われていた。その後友子(大竹)の夫は戦死する。)
すでに同化政策が進んで数十年、朝鮮民族の中に感化されたものが現れても不思議はない。この日記の作者は、文章が書け、計算ができることから、少なくとも小学校は卒業しているものと思われる。小学校卒業率が20パーセント程度にすぎないこの時代の朝鮮半島では、エリートの部類に入るだろう。いや「民草」など記紀神話から生まれた言葉を知っている事や日本語を操る上手さから見て、もう少し高い学歴かもしれない。
大日本帝国陸軍は1942年5月にはアキャブ方面を支配するようになった。ビルマ西部のアキャブはビルマ防衛の要となる飛行場、港湾がある日本軍の重要拠点であった。43年のアキャブと言えば、比較的平穏だった時代である。もちろん、完全な平穏など皇軍が侵略したどの戦地にもある訳がなかったが。
日記が終わる翌年の1944年(昭和19年)2月には第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が行われ、第一次作戦とは全く逆の惨敗を喫している。44年3月には、9万人が参加したインパール作戦(ウ号作戦)が始まり、日本側の戦死者は4万2千。そのうち、病死、餓死が2万2千人。英印軍は1万5千戦死。餓死者ゼロという記録が残っている。日本軍兵士は約半数がこのインド北東部の都市インパール攻略を目指した無謀な作戦で死んだのである。こうした敗北の結果、皇軍と共に敗走する慰安所の女性たちの姿が他の複数資料に記録されている。
まさに「地獄の戦場」と言える惨憺たる結果だが、43年1月のこのころは比較的平穏な時期である。その中で皇軍と運命を共にし、ビルマにやって来て慰安所経営に携わった朝鮮人が作者である。この日記を発見し、研究した安秉直ソウル大名誉教授は、「この日記は筆者の個人的生活上のものであって慰安所の経営や慰安婦問題を体系的に理解しようとする努力は見えないものの、慰安婦問題に関して多岐にわたる情報を提供している。」と書いている(pdf165頁)
菊地○『狂風インパール最前線』19821944,3メイミョー「この町には日本人の慰安婦のいるところや日本人の経営する酒場もあった。この日本の女たちは15軍の参謀らがわざわざ日本からつれてきたもので、ほとんど高級将校が独占していたようである。」
別所源二 『青春と戦争』1980マンダレー東北の避暑地メイミョウ1944将校用クラブの様子「8時ごろになると2階の食堂で鐘が鳴り、私の横を「丸玉」の女たちを含めた2階の住人(将校)が通り抜けて、いそいそと食堂に入っていく。やがてコーヒーのよい香りがこちらに漂ってきて腹をくすぐる。私は毎朝心の中で”畜生”と叫ぶのであった。」
井坂源○ 『弓兵団インパール戦記』 19871944,5マンダレー西 サガイン「慰安所があると聞いて立ちよったが、超満員なのには驚いた。」1945、3シャン高原ケマビュー付近1944年5月インパール作戦に参加した作者は、地獄と言われた戦場を「食糧、医薬品の皆無に泣き、生への望みはいたるところで絶たれた。」と書いている。「師団のやつら女まで連れ歩いていたのか」「6名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと戦後人伝に聞いた。」
高崎伝 『最悪の戦場に奇跡はなかった』 19741945シャン高原からタイへ撤退中
福永勝美 『ビルマの地獄戦』19841945 ペグー山中マヤン「どこから来たのか慰安所の女たちも、この嶮しい山路をテクテク歩いていた。ダブダブの兵隊服に戦闘帽・・・・・言葉使いから広東娘と思われた。他国の戦乱にまきこまれ、生死の淵にあえいでいるかと思うと、哀れさが先に立った。」「坊主頭に軍帽をかぶっていたが、顔を見ると広東娘だった」*本書の前書きには「近頃の世界情勢は、大東亜戦争前のそれに一歩一歩近づきつつあるように「感じられてならない」と書いている。「国内的には戦火の恐ろしさを知らない若者に戦争を肯定するものが増えつつある・・・それは戦慄すべき現象である」という。
寺崎浩 『戦争の横顔』 1974文学者の多くが報道班、宣伝班として徴用されたペナン・シンガポール1941,43ピナン「海岸へりの上海飯店に行く。海軍将校用の慰安所だが、酒を飲んだりダンスができるようになっている。」将校用「図南クラブ」の女性との対話
だいたい様子が分かるだろう。