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ビルマの日本軍慰安所(日本軍慰安所管理人の日記)を読む

ビルマシンガポールの日本軍慰安所の帳場に勤めていた朝鮮人の日記が20125月に韓国で発表され、日本語でも公開されている。


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いくつか、整理しておこうと思っている。


日記は1943 - 44 年のビルマシンガポール慰安所の様子を教えてくれると同時に当時の韓国人の意識を教えてくれる。ただし東方遥拝をすんなりと受け入れているこの日記の作者のように皇軍に完全に順応していた人間は韓国人にはそれほど多くはなかっただろう。

1943年1月1日。作者はビルマのアキャブにいて、慰安所(勘八倶楽部)で目を覚ますと宮城遥拝をしている。「大東亜聖戦」「民草」「皇軍の武運長久」など、その時代の日本人が使っていた言葉が使われている。(「武運長久」という言葉は新藤兼人監督、大竹しのぶ主演作品『一枚のハガキ』という映画の中で、マニラ陸戦隊の集会挨拶に使われていた。その後友子(大竹)の夫は戦死する。)

すでに同化政策が進んで数十年、朝鮮民族の中に感化されたものが現れても不思議はない。この日記の作者は、文章が書け、計算ができることから、少なくとも小学校は卒業しているものと思われる。小学校卒業率が20パーセント程度にすぎないこの時代の朝鮮半島では、エリートの部類に入るだろう。いや「民草」など記紀神話から生まれた言葉を知っている事や日本語を操る上手さから見て、もう少し高い学歴かもしれない。

43年というとビルマがまだ「地獄の戦場」となる前である。

大日本帝国陸軍は1942年5月にはアキャブ方面を支配するようになった。ビルマ西部のアキャブはビルマ防衛の要となる飛行場、港湾がある日本軍の重要拠点であった。43年のアキャブと言えば、比較的平穏だった時代である。もちろん、完全な平穏など皇軍が侵略したどの戦地にもある訳がなかったが。

日記が始まる前の42年の冬、ビルマ西岸地区では英米中軍による反撃が始まり、北部ビルマの奪還を狙った第一次アキャブ作戦がなされていた。ちょうど日記が始まる直前には英国第14インド師団を血祭りにあげている。日記が「皇軍の武運長久を祈った」というのはこうした事が彼の身近にあったからだろう。

日記が終わる翌年の1944年(昭和19年)2月には第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が行われ、第一次作戦とは全く逆の惨敗を喫している。44年3月には、9万人が参加したインパール作戦ウ号作戦)が始まり、日本側の戦死者は4万2千。そのうち、病死、餓死が2万2千人。英印軍は1万5千戦死。餓死者ゼロという記録が残っている。日本軍兵士は約半数がこのインド北東部の都市インパール攻略を目指した無謀な作戦で死んだのである。こうした敗北の結果、皇軍と共に敗走する慰安所の女性たちの姿が他の複数資料に記録されている。

まさに「地獄の戦場」と言える惨憺たる結果だが、43年1月のこのころは比較的平穏な時期である。その中で皇軍と運命を共にし、ビルマにやって来て慰安所経営に携わった朝鮮人が作者である。この日記を発見し、研究した安秉直ソウル大名誉教授は、「この日記は筆者の個人的生活上のものであって慰安所の経営や慰安婦問題を体系的に理解しようとする努力は見えないものの、慰安婦問題に関して多岐にわたる情報を提供している。」と書いている(pdf165頁)


さて本格的な論説は後日とし、とりあえずビルマ慰安所慰安婦に関する他の資料を予備知識として掲載しておこう。


藤原拓によると42年の現地軍の中には、朝鮮人慰安婦を連れ歩く中隊の姿もあった。
藤原拓 『外科医戦場物語』 1977
北部ビルマ カレワ
1942
「乾季に入ってから九州男児の中隊と東北健児の中隊とが交代した。東北健児の戦績の程は知らないが、朝鮮の女を何人か連れてきている。」

 

黒田秀俊 『軍政』 1952
 
北部ビルマ カレワ 1943
 
「宿舎の下の家には珍しく4,5人の女がいた。いずれも濁音のいえない慰安婦たちであった。少し離れたところに日本の女のいる将校用の慰安所があった。」
 
ビルマ東北国境にちかい中国雲南省
 
「竹の柱、竹をそいで組み合わせた壁、わらぶきの屋根、そして何々荘と書かれたノレンの下がっている家。これが慰安所で、私の目に触れただけでも2,3軒はあった。女たちは日中になると汚れた和服姿で表に散歩に出ていた。案外屈託なく、通りすがりの兵隊に冗談を言ったりしていた。また、いつの日に帰れるとも知れない絶望の影を感じないわけにはいかなかった。」
 


 


 菊地○『狂風インパール最前線』1982
 
1944,3
メイミョー
 
「この町には日本人の慰安婦のいるところや日本人の経営する酒場もあった。この日本の女たちは15軍の参謀らがわざわざ日本からつれてきたもので、ほとんど高級将校が独占していたようである。」
 
*著者によると富山県の小学校にビルマ方面軍司令官河原正三大将の肖像が立っているという。

 
別所源二 『青春と戦争』1980
マンダレー東北の避暑地メイミョウ
1944
将校用クラブの様子
「8時ごろになると2階の食堂で鐘が鳴り、私の横を「丸玉」の女たちを含めた2階の住人(将校)が通り抜けて、いそいそと食堂に入っていく。やがてコーヒーのよい香りがこちらに漂ってきて腹をくすぐる。私は毎朝心の中で”畜生”と叫ぶのであった。」

 

三浦徳平 『一下士官ビルマ戦記』 1981
 
 1944、6月
 
ミートキーナ(蜜支那
 
地獄の戦場と言われたビルマ。第18師団の生存率は40人に一人だという。
 
 
「連隊本部の付近には商売が駄目になった慰安所の妓たち10数人が避難してきて、前線に運ぶ握り飯などを作るのを手伝っていた。」
 

 

 井坂源○ 『弓兵団インパール戦記』 1987
1944,5
マンダレー西 サガイン
慰安所があると聞いて立ちよったが、超満員なのには驚いた。」
 
1945、3
シャン高原ケマビュー付近
1944年5月インパール作戦に参加した作者は、地獄と言われた戦場を「食糧、医薬品の皆無に泣き、生への望みはいたるところで絶たれた。」と書いている。
 
「師団のやつら女まで連れ歩いていたのか」
「6名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと戦後人伝に聞いた。」

 

高崎伝 『最悪の戦場に奇跡はなかった』 1974
1945
シャン高原からタイへ撤退中
「傷病兵と看護婦、慰安婦たちは、タイ国のチェンマイに向かった。この途中、軍の女郎屋の女将が、軍票をリュックにどっさり詰め込んで、兵隊と一緒に行軍していたが、ついに落伍して「兵隊さん・・・お金やるから、荷物を持ってくださいよ」と哀れな声で頼んだが、兵隊たちは笑って、「おばさん、もう軍票は役に立たんとばい。みんな捨てちまいなよ。」冷やかす兵隊たちを、女将はうらめしそうににらみつけていた。」
 
 


福永勝美 『ビルマの地獄戦』1984
 
1945 ペグー山中マヤン
 
「どこから来たのか慰安所の女たちも、この嶮しい山路をテクテク歩いていた。ダブダブの兵隊服に戦闘帽・・・・・言葉使いから広東娘と思われた。他国の戦乱にまきこまれ、生死の淵にあえいでいるかと思うと、哀れさが先に立った。」
 
「坊主頭に軍帽をかぶっていたが、顔を見ると広東娘だった」
 
*本書の前書きには「近頃の世界情勢は、大東亜戦争前のそれに一歩一歩近づきつつあるように「感じられてならない」と書いている。「国内的には戦火の恐ろしさを知らない若者に戦争を肯定するものが増えつつある・・・それは戦慄すべき現象である」という。

 


寺崎浩 『戦争の横顔』 1974
 
文学者の多くが報道班、宣伝班として徴用された
 
ペナン・シンガポール
 
1941,43
 
ピナン
「海軍部隊が入ってきて、海岸地帯を手に入れていた。海岸沿いのホテルをいくつか接収し、学校を手に入れていた。翌日には若い女の子、主として中国娘を連れてきて慰安所を開いていた。」
 
 
シンガポール、1942、特務艦商船氷川丸に乗って
 
「海岸へりの上海飯店に行く。海軍将校用の慰安所だが、酒を飲んだりダンスができるようになっている。」
 
 
将校用「図南クラブ」の女性との対話
 
「「支配人て誰だい?」「日本橋の料理屋の番頭よ。それが監督にごまをすってるでしょ。だから強いのよ。」監督というのは兵站参謀のこと。一参謀の命令で、旅館、慰安所、宿舎、料亭が思い通りに動かせるのだ。」

 だいたい様子が分かるだろう。