昭和史の謎を追うーなぜ陸軍は侵略戦争推進勢力となったのか?
【大日本青年党】の記録
「一一般平穏 対支問題各種会合ハ総テ盛会ナリ 」と全体の感想が述べられている。
そして
「二、十七日中ニ於ケル右翼方面状況」
と書かれている。

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少し事情を説明しておこう。
1920年代からだ。
1920年代、ワシントン条約→ロンドン条約と海軍軍縮が続き、ロシア革命の結果仮想敵国であった帝政ロシアが崩壊したのもあって陸軍も大正年間に3度も軍縮を実行している。そのため、往時には国家予算のおよそ半分を占めていた軍事費は縮小し、4割弱にまでなっていた。4割弱でもかなりの軍事国家だったわけだが、それはさて置き、大正デモクラシーの中で今日につながるような民主主義が胎動し小さな灯のような市民社会が生まれつつあり、その中で軍人は小さくなりはじめていた。
存在意義を失って来た皇軍の巻き返し
阿部牧郎の伝記小説から、この一節を拾ってみる。
だが、軍縮は一方で軍人軽視の風潮を招いた。・・・(中略)・・・・一学年800名だった士官学校生徒が200名に減らされた。「ビンボー少尉」「やりくり中尉」「ヤットコ大尉」など安月給がバカにされた。良家の娘は相手がたとえ陸大出のエリートでも縁談にソッポを向くようになった。国防の錦の御旗に軍はこれまでしばしば横暴を通して来たが、平和な時代になって報いを受けたわけである。
こうした軍内の不平・不満があり、社会においては世界恐慌の中、さらに1929年には記録的な飢饉が東北に起こる。トルコ公使館付武官時代にムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に感化された橋本欣五郎が中心となって【桜会】を造ったのは、1930年であった。
その頃、確かに政治家の腐敗もあったわけだが、これはたいした問題ではないだろう。例えば遊郭を移転させて懐を温めようとした松島遊郭事件や勲章疑惑が起こったが、しかし政党政治を転覆したい勢力はこれらを利用して、政党政治を排除したいから批判していただけだからだ。
結局は「政党政治打倒=反民主主義」思想が、上杉慎吉らを経由して陸軍の青年将校に蔓延するようになり、この「政党政治打倒=反民主主義」が最初から彼らの念頭にあったの過剰な攻撃をしたのである。→http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64832248.html
筆者注)この時代の政治家たちも国民(臣民)の目が届かないのをいいことに、私利を得るための行動をとっていたが、その後、軍国主義時代になればそんなものは比較にならないほど私利私欲に走る軍人がいたのである。その象徴が「日本軍慰安婦」であった。
こうした時代の中で橋本欣五郎中佐やその子分の長勇大尉や田中清少佐は積極的に勧誘を行い、桜会に入会した青年将校たちは、わずか1年で100人近くなり、陸軍中枢に陣取っていた。陸軍省と参謀本部、陸軍大学校の将校たちが多数入会し、3月事件や10月事件のクーデター計画に参加した。
3月事件や10月事件は、日本の進路を大きく悪化させたキッカケとなる事件だったので詳細を述べたいが、その前に次回は「参謀本部」という組織について簡単な解説を行いたいと思う。
「3月事件について」↓