河野談話を守る会のブログ2

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こうして現代に貴重な記録の一部が残されたのだ・・・・焼け残った資料について




すでに述べて来たように、1945年8月の敗戦直後、大日本帝国はその犯罪履歴を隠すために、多数の資料を焼却した。霞が関でも朝鮮総督府でも、黒々とした煙が数日間ただよい続けた。まるで犯罪者が自分の犯罪記録を破棄したようなものだ。こうした証拠隠滅の実行者が当時内務省の役人であった奥野誠亮元法相(すでに政界からは引退、およそ100歳を超えている)であり、にもかかわらず、慰安婦の証拠は無いなどと宣もうていたのである。あまりの不仁に何を言えばよいのか分からない。犯罪であったとしてももはや時効かも知れないが、彼らは我々を歴史の忘却者にしようとしたのである。歴史の忘却者になるのは、孤児になってしまうようなものだ。今「私」がどのような経過の中で存在しているか、が分からなくなるからである。なおかつ今日、歴史修正主義者が量産される原因を造ったともいえる。もし犯罪でなくても不快であることは確かである。しかし彼らの企みが全面的に上手く行ったわけではなかったのだ。大量に焼却されても多くの証言はなされてきた。人は重荷を背負って生きていてはいけない。やった事はちゃんと告白しないと心が重くなり、何か良い事が起こっても、その心の闇ゆえに決して心から喜べない人生になってしまうからだ。たとえその時は大手術でもやった事ははっきりさせた方がよい。そういう訳で人は自分の体験したことを結局は喜んで話すのだし、20世紀の終わりころから戦友会が概ね機能不全になると戦争を振り返る本が増えたのである。誰かが子孫に伝えたいものがあるので歴史はつながるのだ。

それはともかく残された資料の話をしよう。

内務省が資料の焼却命令を各政府機関に伝え、焼却が始まる中で海軍でも陸軍でも、全ての資料を焼却しないで保存しておいてくれた人達がいた。おかげで我々は全てではないにしても、歴史を知ることができるのである。命令に背いて、資料を保存してくださった方々に感謝申し上げたい。

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『現代史資料7満州事変』

 1964/4 ,小林 龍夫 (編), 島田 俊彦 (編)






『現代史資料7満州事変』のあとがき
島田俊彦著作「軍令部戦史部始末記」

1945年8月当時、島田俊彦氏(歴史家)は、軍令部戦史部に勤めていた。当時戦史部は空襲から疎開して山中湖畔のニューグランドホテルに移っていた。そして敗戦。機密書類の焼却命令が出たという。この辺りを抜き出してみよう。

海軍大臣からは機密書類の焼却の厳命が来ていた。だが、当時資料保管の責任者でもあった私には到底焼く気になれなかったし、また将来のために焼くべきではないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。


実はこの後で、島田氏がやろうとしていることが、部員長の長井純隆大佐にバレて「大臣の命令が分からないのか。全部焼け」と命じられてしまい、こんなシーンが展開する。

徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦がし、最初の晩には村人が火事と間違えて駆け付けるほどだった。
こうして戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。


しかし、話はここで終わらない。島田氏が大臣命令違反を覚悟で資料を残したからである。たった200余冊の日中関係資料であったが、焼却を免れ、『現代史資料7満州事変』に一部が、『現代史資料8日中戦争には大量に使われている。

こうして我々は今日、精神の孤児にならなくて済んでいるわけである。満州事変以来の、あの14年と何カ月に渡った侵略戦争のほとんどすべてが、日本側の謀略によって始まり、拡大して行った・・・・という事実を我々は知るからである。悪事をなしておいて、知らん顔をすることはできない。それは天に唾を吐くようなものだからだ。

さて、奇妙な事に陸軍参謀本部支那事変史編集部でも、同じようなことが起こった。

画像はアマゾンから
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『陸海軍将官人事総覧 』
1981/9
外山 操 (編集)







『陸海軍将官人事総覧』p9
外山操「編者まえがき」
・・・・・焼却命令が届いた。
3日3晩夜空を焦がして沿線各駅におろされた明治建軍以来の貴重な資料が燃えて行く。
しかし石割中佐は、「これでは日本陸軍史は消えてゆく。何とか貴重なものだけでも、たとえ命令に違反しても、将来のために隠匿する必要がある。」と判断し、重要書類の焼け残りを極力蒐集 した。当時占領軍の追及は厳しかった。しかし彼はこの資料を万難を排して保管した。


やがて外山氏がその資料を管理するようになり、現在は防衛庁戦史室に保管されているという。

占領軍の追及を逃れたという事は、連合国占領軍は、焼け残ったこうした日本側の公文による資料の存在をまるで知らずに当時の人達の証言に重きを置いて東京裁判を裁いたということだ。かなり苦労したのだろうと推測する。何人かが話してくれないとその頃日本で何が起こったのか、細部がまるで分からないからである。そこで石原莞爾のように目こぼしが出たり、田中降吉のように司法取引が必要だったりしたのだろう。どちらも戦争を勃発させ、あるいは拡大して行った謀略の主であったにも関わらず・・・・である。海軍の島田俊彦氏のように、自分で選んだのではなく「焼け残り」であった事もマイナスポイントではある。

残された資料はそう多くは無い。しかし証言と合わせれば、あの戦争のケリをつけるぐらいのものはあるだろうか。戦後70年、いよいよケリをつけなければならない時代がやって来たのだ・・・・。