河野談話を守る会のブログ2

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従軍記者・小俣行男が描いた慰安所のおぞましい光景

 
 
もし、自分の娘が騙されて見知らぬ土地に連れて行かれ、望まぬ男の性の相手を強制されて、泣いていたなら、私はどう感じるだろう?

怒り、悲しみ、憎むだろう。
人として当たり前の事ではないのか?

日本人であるとか、韓国人であるとか、北朝鮮人であるとか、米国人であるとか、台湾人であるとか、中国人であるとか、フィリピン人であるとか・・・どの国の人であっても、そうした人として当たり前の人間性を共有する人達とは、国境を越えて友人となる事ができる。

しかし、どういう理由かは分からないが、日本の中にはこうした人間性が破壊されている人々がいて、そういう人達と友人となるのは困難である。おそらく不可能なのだろう。



 
読売新聞の従軍記者 小俣行男の記録を読む


ある日「日本から女が来た」という知らせがあった。連絡員が早速波止場にかけつけると、この朝到着した貨物船で、朝鮮の女が4、50名上陸して宿舎に入っていた。まだ開業していないが、新聞記者たちには特別にサービスするから、「今夜来てもらいたい」という話だった。
「善は急げだ!」
ということになって、私たちは4,5名で波止場近くにある彼女らの宿舎に乗り込んだ。
 私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」
 彼女たちがいうように逃亡できる状態ではない。考えた末に「これは憲兵隊に逃げこんで訴えなさい」と言った。(略)これらの少女たちが駆けこめば、何か対策を講じてくれるかもしれない。或いはその反対に処罰されるかもしれない。しかし今のビルマでは他に方法があるだろうか。
若い記者たちも同情した。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブ(将校専用の慰安所)がけっして安全なところでないことは戦地の常識である。その後この少女たちはどうなったろうか。

(1942年5月か6月頃 ビルマ、ラングーン)
( 小俣行男著『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社(1967年))

少女たちは、かろうじて憲兵隊に駆け込んだ。だが、それが一部の未成年者であったこと、そして一時的に保護されても結局は、「将校クラブ」に入れられていることにも注目しなければならない。「将校クラブ」は、将校専門の慰安所で、お酒の相手をしたり、歌や踊りで楽しませたりもしたが、当時内地の芸者やカフェの女給がそうであったように性の相手もしなければならなかった。たいていは日本風料亭の形になっていた。少女たちが将校の相手を断るなど不可能な話である。小俣行男は「安全なところではない」と書いているが、安全どころか、狼の鼻先に餌を置いたようなものだ。彼女たちのその後の生活を思うと胸が痛くなってしまう。少しでも救いがあるとしたら、「将校クラブ」ではたいていは1日に1人を相手にすれば良かった点だけだろう。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64523853.html毎日、10人も20人も相手にする兵隊用慰安所のつらさに比べたら少しだけ救われるという話である。・・少しだけだ。それにしても「東京の軍需工場へ行くという話しで募集」は明らかに詐欺である。その話を聞いても憲兵は何もしなかったのか?詐欺の犯人を捕まえ裁きにかけ、女性たちは故郷に送り返すのが当たり前ではないか。しかしここで述べたようにhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64976711.html憲兵はそもそも犯罪の犯人を捕まえようという気がないのである。彼らの関心が一般的な犯罪の摘発に向けられるのは稀であった。
 

            憲兵とは
当時の憲兵には日本の法律を守る気がなかった。一般的には憲兵は、戦地の警察のように考えられている。そう書いている本もある。しかし、彼らが守るべき法律は陸海軍刑法であり、これは一般の刑法とは違っている。しかも、その軍刑法さえ影では守ろうとしなかったではないか。もちろん、現地の婦女を強姦した皇軍を罰した例もあるわけだが、それが主な仕事とは言えない。

占領地における憲兵の主な仕事と言えば、皇軍の占領を補助してロウムシャの狩り出しやスパイの摘発などであった。むごたらしい拷問は憲兵の代名詞である。占領地の住民は後難を恐れて、食べ物、女性、財宝を差し出した。ゆえに彼らは”威嚇憲兵と呼ばれたと『陸軍師団総覧』(p42)は書いている。

その憲兵慰安婦を集めた例の一つが山崎正男日記』(山崎正男少佐、第10軍参謀 出典は南京戦史編集委員会『南京戦史資料集』)である


先行した寺田中佐は,憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置した。最初四名だったが,本日より七名になった。未だ恐怖心があった為、集まりも悪く「サービス」も不良だったからか,生命の安全が確保されること,金銭を必ず支払うこと,酷使しないことが普及徹底すれば,逐次希望者も集まり始めたので,憲兵は百人位集るだろうと漏らした。別に告知を出した訳でもなく,入口に標識を立てたわけでもないのに,軍人は何処からか伝え聞いて大繁盛を呈し、どうかすると酷使に陥り注意しろとのことなり。先行して来られる寺田中佐は素より自ら実験済みとはいえ,本日到着された大阪少佐、仙頭大尉はこの話を聞き我慢できなくなったと見えて、憲兵隊長と早速出掛けて行った。約一時間半で帰って来られた。概ね満足のようだった。(山崎正男日記』)

これも威嚇してつれて来たのだろう。

戦後のBC級裁判で死刑になった憲兵は300人ほどいた。もちろんこの人数は氷山の一角にすぎなかっただろうが、日本の敗戦直後インドネシアでは手配書を出してまで悪徳憲兵を捕まえており、今日でも「ロウムシャ」「ケンペイ」は皇軍の悪辣さを示す代名詞である。皇軍の悪事を言及する時にかなりの割合で憲兵の悪事が入っているのだ。慰安婦の徴集も憲兵が関わる例が多くマゲラン事件フロレス事件では慰安婦徴集を実力行使している。戦後、日本はODAでかなりの金額をアセアン諸国につぎ込んだが、それには「戦争中のことは、もう言わないでくれ、これで黙っていてくれ」という口止め料か慰謝料のような意味合いがあったと思う。
やった事をはっきりさせないで、なんとなくウヤムヤにしてしまおうとするところが玉虫色の決着を望む、なんとも日本政府らしいやり方なのである。
 

満州での憲兵は「反日分子はその場で射殺できる」というおそるべき権限が与えられており、横暴を極めた。昭和9年、数十人の中国人商人を拷問したという瓦房店事件など序の口にすぎない(江口圭一『昭和の歴史・第4巻・15年戦争の開幕』

横暴を働いたのは植民地や占領地だけではなく、日本国内でも皇、軍、戦争などへの疑問を口にしようものなら、拘束し拷問した。そのやり方は例えば東条の政策を批判した中野正剛衆議院議員を執拗に追いつめ自決に追い込んだ事例を見れば十分だろう。いつのころからか、またどんな理由かも知らないのだが、日本では議会に憲兵10数人が詰めかけ、議員たちの発言をチェックし、軍に対する攻撃を弾圧した。元老・西園寺公望の秘書・原田熊男の書いた『原田日記』は、昭和8年ころの閣議の実情を次のように描いている。

「・・・軍部に不利なことをいえば、すぐに憲兵が来て剣をガチャガチャやったり、ピストルを向けたりして威嚇される。言論の圧迫、今日より酷いことはない。・・・・・」『原田日記』より)

おそろしい話である。
これが民主主義のわけがない。軍部独裁クーデターを企てた桜会の担いだ荒木らしいやり方だ。
しかし民主主義とか言う以前に、戦前日本の刑法でもこれは「脅迫罪」のはずだが、憲兵自らがそれを犯しているわけだ。こんな奴らが「法の番人」のわけがないではないか?

こういう時代に皇軍がやった事を「アジアの解放」とか抜かすバカがいるのだが、この手のキチガイが支配する大日本帝国が何を解放したというのだろう?日本人を解放してほしいものだ。

今日自民党が、気に入らない放送局に対して「放送免許」をちらつかせ、圧力をかけているが、それは、極右遺伝子のなせる業なのだろう。さらに特定秘密法と来たもんだ。多くの識者が指摘しているようにこれは言論弾圧法と化すだろう。
公安警察(戦前は特高警察)の人数が増えているともいう。http://tameike.net/books/koan.htm困った時代になったものである。