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『玉の井挽歌』の注目点







玉の井挽歌』  1983年
作家の大林清氏が元玉の井銘酒屋組合長の国井茂氏から聞き取り

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この資料の注目点)

① 陸軍省が「慰安婦」集めのため業者にアプローチ

② 当時、総動員下であり、軍が必要だと判断すれば、徴用という形になったはずである。しかし、さすがに非難されてしまうので、正規のルートをとらず、呼びだしてこっそり打診している。

③ 「要するに業者の皆さんが自主的にこれを経営するという形を取りたいのです」というセリフ

④ 「もともと法網をくぐる密淫売で、月に一回業者の誰かが、二十九日間の拘留を食う慣行で、警察との馴れ合いとはいうものの、辛うじて営業を続けているくらいだから、お上の一言でたちまち明日からでも営業停止を食う心配がある。」

⑤ 多業者に声をかけている。

 「亀戸銘酒屋組合の組合長森脇幸三郎のほかにもどうやら同業者らしい連中が四、五人」

⑥ 「参謀肩章を吊った金筋四本に星一つ、少佐が

⑦ 戦争の拡大を陸軍の少佐が告げている

いくさはこれからいよいよ拡大の一途をたどるものと思います。敵も徹底抗戦を呼号しておるから、最後の勝利をおさめるまでは、こちらも相当な覚悟を持って臨まなければならんでしょう。ところで・・・・・」

⑧ 軍の代わりに

 「そこで皆さんにお願いだが、軍の慰安のために接待婦を至急集めて戦地へ渡ってもらいたい。つまり軍に代わって慰安施設を開いてもらいたいということです。何ぶん戦線は広汎にわたるので、内地はもとより台湾・朝鮮からも自主的に或いは軍の要請で、すでに多くの娘子軍大陸へ渡っているが、本日お集まり願った玉の井・亀戸地区の皆さんにも、是非ご協力を願いたい。派遣地域はとりあえず上海を起点とする中支方面、住居は軍が準備するし、食事の給与その他移動に関しては、すべて軍要員に準じてこれを行ないます。細かい点については当方の担当者と相談の上でやっていただくが、要するに業者の皆さんが自主的にこれを経営するという形を取りたいのです。まさか軍が女郎屋を経営する訳にはいかんのでね。はっはっは」

「少佐は軍が女郎屋を経営する訳にはいかないといったが、それが軍の一機関であったのは、慰安所要員に正規の兵隊が派遣されて来ていたのでも分かる。」

⑨ 産経新聞総帥・鹿内信隆が語っていた内容によく似ている

 「軍では慰安所開設について、たとえば娼婦の料金をいくらにし、それを雇主とどう分配するかまで、業者顔負けの案が出来ていた。
 少佐は軍が女郎屋を経営する訳にはいかないといったが、それが軍の一機関であったのは、慰安所要員に正規の兵隊が派遣されて来ていたのでも分かる。」

⑩  設置理由

「いくさが長引けばいろいろと不自由なことが出て来る。特に若い血気の兵隊にとっては、性欲のハケ口をどうするかということが大きな問題です。これは適当に処置しないと士気にも影響して来る。

⑪  「筆者の従軍体験からの余談になるが、少なくとも太平洋戦争がはじまってからは、内地の業者で戦地へ渡った者は九州地区が最も多く、台湾がそれに次ぎ、朝鮮からは強制的に非娼婦の婦女子を拉致して投入したケースもあるようである

⑫ 依頼の形をとりながら、断れない依頼であり、命令と同じ

「五十人の女をつれて行くようにと割り当て」

「軍じゃ命令とはいわないが、まあ半分命令のようなもんだ。まさか誰も行き手がありませんて訳にはいかないじゃないか」

 「国井は陸軍省へ再三出向いての打ち合わせで、こまごまとした指示を受けていた。」

「 業者を起用し娼婦を活用しようとした軍の発想が、現地での日本兵の婦女凌辱のおびただしさに手を焼いた結果と思えば、たしかに妙案であったかも知れないが、軍が直轄同様にして娼婦部隊を戦場に送った例は、世界戦史上例を見ないのではあるまいか。」

⑭ 場所、建物、備品は軍が用意

「五十三人の従軍慰安婦は三班に編成され、上海派遣軍司令部から差し廻された三台のトラックに分乗して、上海周辺地区の呉○、南翔、南市へそれぞれむかって」

「主人の国井でさえ、これほど軍が周到な準備をととのえていようとは思わなかった。」






 昭和十二年十一月、第二次上海事変で上海が陥落して間もない或る日、玉の井銘酒屋組合長国井茂宛に一通の電報が舞い込んだ。

  「キタル二〇ヒゴゼン一〇ジリクグンシヨウマデシユツトウセラレタシ」

 実際には陸軍省何局とか何部何課とか指定があったにちがいないが、筆者にその話をした時の国井さんは八十歳を越える老齢だったので、そこまで細部を記憶していなかった。
 第二次上海事変で日本と中国が全面戦争に突入した時期だったので、この非常時に淫売宿をやっているとは何事かという叱りを受けるのではないかと、国井組合長は最初に思った。
 そこで国井は、副組合長や組合の幹事たちに、どうしたものかと相談してみた。
 誰も明快な判断を下せる者はなかった。
陸軍省ともあろうものが、公式文書ならともかく電報をよこすなんて、こりゃアわれわれの商売を嫉んだ奴のイヤガラセじゃないのか」
 そういう者があった。
 戦時下で接客業は一般に不景気になって来ているのに、玉の井銘酒屋街はいつ赤紙が来るか分からない連中や、産業戦士と呼ばれる工場労働者で、むしろ空前の賑わいを呈していた。
「本当に陸軍省のお達しなのかどうか、問い合わせてみてはどうだろう」
 という意見も出たが、それもかえって藪蛇ではないかという危惧の方が強かった。
 何しろ弱い商売である。もともと法網をくぐる密淫売で、月に一回業者の誰かが、二十九日間の拘留を食う慣行で、警察との馴れ合いとはいうものの、辛うじて営業を続けているくらいだから、お上の一言でたちまち明日からでも営業停止を食う心配がある。
「こうなったら一か八かだ。ともかく行ってみたらどうだろう。悪戯なら悪戯でお手数をかけましたとあやまって引き下がればいいじゃないか」
 結論はそういうことになった。
 昭和六年満州事変がはじまってこの方、業者も相当神経を使って来ていた。出征兵士があれば、酌婦を督励して愛国婦人会の襷をかけさせて歓送させ、慰問袋を作っては陸軍省恤兵部へ寄贈させもし、国策遂行へ協力して来た。
 それというのも、時局怪しからぬと睨まれたら、五百軒の玉の井特飲街の銘酒屋は潰滅し、千人を越える酌婦に投下した資本は回収がつかなくなる。文字通り死活の問題だった。
 銘酒屋を十数軒持つ有力業者の国井の場合は、賽がウラ目に出れば受ける打撃も大きい。電報で指定された十一月二十日、神ほとけにでも念じたい気持で、市ヶ谷台の陸軍省へ出かけて行った。
 電報はイヤガラセでも悪戯でもなかった。受付で来意を告げると、意外な鄭重さで一室へ通された。しかも赤い絨緞を敷きつめた立派な応接室風の部屋で、モロッコ革の肘掛椅子やマホガニーのテーブルが配置されている。
「よう、あんたもか」
 肱掛椅子から首をめぐらして声をあげたのは、亀戸銘酒屋組合の組合長森脇幸三郎だった。ほかにもどうやら同業者らしい連中が四、五人、いずれも落ち着かない様子で椅子にかけていた。
「何だね、いったい今日は」
 国井は森脇の横へかけてささやいた。
「わからないんだ。実は悪い予想をして来たんだが、それにしちゃ待遇がよすぎるしね」
 森脇も狐につままれたような顔である。
「せいぜい営業を自粛しろってとこかな」
 不安の中から少し希望が生まれた。
 その時、靴音が廊下からはいって来た。
 たぶん若僧の少尉ぐらいだろうと思っていたが、先に立ったのは参謀肩章を吊った金筋四本に星一つ、少佐である。そのあとに副官らしい少尉と下士官が従っていた。
 一同はバネ仕掛けのように起立した。
「どうぞかけて下さい」
 少佐は微笑さえ含みながら、民間人のようなくだけた調子でいって、一同と向かい合う席を占めた。
 国井は眉に唾をつけたい気持ちだった。猫と見せかけて油断させ、突然虎に変じるのは軍人のよく使う手である。
「さアどうぞ」
 と、少佐はしゃちこ張っている一堂にもう一度すすめ、席につくのを待って、
「本日はいそがしいところを皆さんご苦労でした。お集まり願った趣旨をこれから簡単に説明しますが、その前に出席者を一応確認させてもらいます」
 少佐がそういうと、下士官が手にした卦紙を開いて、一人々々の氏名を読み上げはじめた。それも呼び捨てではなくて、「さん」付けだった。最初の者が立って返事をすると、「どうぞそのまま」といわれた。
 それが終ってから、少佐はテーブルへ体を乗り出した。
「大陸における現下の戦局がどういうものかは、新聞やラジオの報道で皆さんよくご存じと思うが、いくさはこれからいよいよ拡大の一途をたどるものと思います。敵も徹底抗戦を呼号しておるから、最後の勝利をおさめるまでは、こちらも相当な覚悟を持って臨まなければならんでしょう。ところで・・・・・」
 少佐が言葉を区切って一同を見廻したので、国井はそら来たと呼吸を詰めた。
「戦線の将兵ですが、いくさが長引けばいろいろと不自由なことが出て来る。特に若い血気の兵隊にとっては、性欲のハケ口をどうするかということが大きな問題です。これは適当に処置しないと士気にも影響して来る。こういうことは専門家の皆さんの方がよく知っておられるが・・・・・」
 業者の間から忍び笑いが漏れて、座の空気は急にほぐれた。営業停止はおろか自粛もまず大丈夫らしい。
「そこで皆さんにお願いだが、軍の慰安のために接待婦を至急集めて戦地へ渡ってもらいたい。つまり軍に代わって慰安施設を開いてもらいたいということです。何ぶん戦線は広汎にわたるので、内地はもとより台湾・朝鮮からも自主的に或いは軍の要請で、すでに多くの娘子軍大陸へ渡っているが、本日お集まり願った玉の井・亀戸地区の皆さんにも、是非ご協力を願いたい。派遣地域はとりあえず上海を起点とする中支方面、住居は軍が準備するし、食事の給与その他移動に関しては、すべて軍要員に準じてこれを行ないます。細かい点については当方の担当者と相談の上でやっていただくが、要するに業者の皆さんが自主的にこれを経営するという形を取りたいのです。まさか軍が女郎屋を経営する訳にはいかんのでね。はっはっは」
 少佐は参謀肩章を揺すって笑った。

 誰が計画を立案し、研究したか知らないが、軍では慰安所開設について、たとえば娼婦の料金をいくらにし、それを雇主とどう分配するかまで、業者顔負けの案が出来ていた。
 少佐は軍が女郎屋を経営する訳にはいかないといったが、それが軍の一機関であったのは、慰安所要員に正規の兵隊が派遣されて来ていたのでも分かる。
 これは筆者の従軍体験からの余談になるが、少なくとも太平洋戦争がはじまってからは、内地の業者で戦地へ渡った者は九州地区が最も多く、台湾がそれに次ぎ、朝鮮からは強制的に非娼婦の婦女子を拉致して投入したケースもあるようである。まして南方諸地域では無差別に現地婦女子を拘禁売春させたかに聞いている。しかも日本女性と植民地及び現地女性との間には格差を設け、将校用、下士官用、兵用と段階を分けた。さらに高級将校用としては内地・台湾・朝鮮の花柳界から業者が渡って料亭を開設し、応募した芸妓を接待婦とした。それらはおおむね佐官以上の享楽場であった。
                                                                                         (194~199頁)


 玉の井の国井組合長は陸軍の要請を承諾して帰ると、早速酌婦の中から慰安婦志願者を募る作業にかかった。
 ところがいざとなると、事はそう簡単にはいかなかった。
 この年、永井荷風の「濹東綺譚」が発表されたことに依って、玉の井は日本国じゅう隈なく知れわたり、戦時中ながら最盛期を迎えていた。何よりまず業者が、玉の井で立派に商売が成り立っているのに、何を好んで戦地へなんぞ、とそっぽを向いた。
 銘酒屋の主人はみんな血も涙もなく、哀れな女の生き血を吸ってボロ儲けしているように、世間ではいわれている。それはたしかにそうなのだが、反面ほとんどがたいした蓄えもない零細業者で、女に逃げられて貸金を踏み倒されれば、そのまま潰れてしまうものがいくらでもいる。
 戦地で慰安所を開設するとなれば、二人や三人の女を連れて行ったのではどうにもならない。そうかといって何十人も集めるには、それ相応の資金が必要である。
「軍じゃ命令とはいわないが、まあ半分命令のようなもんだ。まさか誰も行き手がありませんて訳にはいかないじゃないか」
 国井がいくらそう説いても、無駄だった。
「組合長、あんた自分でやったらどうだね。あんたならやれる」
 口説かれた業者はそういった。
 業者の大半は一軒持ちだが、国井は十数軒持っているから、酌婦の数は三十人はいる。その中から希望者を募れば、何とか格好はつこうというものである。
 結局は国井も、そうするより仕方がないかと観念した。
 開設場所としては、十一月十一日に陥落したばかりの上海が指定されている。上海にはこれから揚子江を進撃し、南京を攻略しようとする部隊が続々集結しているという。当たれば大きいかも知れない。
 国井が陸軍省へ協力を申し入れると、五十人の女をつれて行くようにと割り当てられた。これには国井も困ったが、こうなったら乗りかけた船、乗るか反るかやるまでだった。
                                                                                         (200~201頁)
       
 ところで地元玉の井からは、いくら勧誘しても一向に希望者がなかった。
 それもその筈、大陸の戦火が拡大するにつれ、内地の生活は窮屈になる一方、娯楽も非常時掛け声に制限されて、毎日が味気なく灰色の戦時色に塗り潰されて行く中で、玉の井のような売春街はどうやらまだ明るい灯をともしていたから、景気は逆にここでは上向いていた。第一に業者が女を放さなかった。
                                                                                         (202頁)

 国井は陸軍省へ再三出向いての打ち合わせで、こまごまとした指示を受けていた。曰く、現地上海では五十三人を三班に編成し、市街周辺地区三ヶ所で開業すること。現地到着までの途中はなるべくケバケバしい服装を避けて、いかがわしい女と見られないよう言動を慎むこと等々。
 業者を起用し娼婦を活用しようとした軍の発想が、現地での日本兵の婦女凌辱のおびただしさに手を焼いた結果と思えば、たしかに妙案であったかも知れないが、軍が直轄同様にして娼婦部隊を戦場に送った例は、世界戦史上例を見ないのではあるまいか。
                                                                                                                                                        (209~210頁)

 五十三人の従軍慰安婦は三班に編成され、上海派遣軍司令部から差し廻された三台のトラックに分乗して、上海周辺地区の呉○、南翔、南市へそれぞれむかって、埠頭を出発した。
                                                                                         (218頁)

「ヒヤッ、畳の部屋だよ!」
 女たちは奇声をあげた。
 洋館の内部は工兵隊の手ですっかり改装され、廊下の片側に真新しい青畳の小部屋が十五並んでいた。夜具や荷物を納める押入れまで作りつけられてい
る。
 そのはかに女たちの食事のための食堂があり、浴室があり、便所はその頃まだ日本では珍しかった水洗式のが、女たちの洗滌のために必要だからである。
 主人の国井でさえ、これほど軍が周到な準備をととのえていようとは思わなかった。畳も建具も慰安所開設のために、あらかじめ内地から輸送船で運んだものだった。
                                                                                           
 (219頁)                     
★             大林清玉の井挽歌』(1983年,青蛙房




【備考】

玉の井、亀戸といった私娼窟が、非合法でありながら軍の慰安所を造ったという話は向井啓雄も書いている。


向井啓雄 『特殊女性』 文芸春秋新社、1955

戦争中にあっては、一切の享楽は禁止されながらも、産業戦士の慰安、戦意高揚という目的を達成するためには、向島や池袋のミズテン芸者が接待所という名目で営業を許されていた。また、玉の井、亀戸といった私娼窟は、元来は非合法の存在であったのが、戦力増強という至上目標のもとに、慰安所という看板を与えられていたのである。日本軍の将兵のために慰安施設がととのえられ、そのための従業婦が遠く南方戦線をはじめ各地に派遣されていたことも周知の事実である。さらに、特攻隊の出撃が頻々となり、特攻隊員の訓練基地が各所に設けられる段階に達すると、『花と散る特攻隊員を慰問するために』と、女学生その他の女性の挺身的奉仕を求める指導者もあらわれている

(p57~p58)