週プレニュース(アメーバニュース)が掲載した(警官による朝鮮半島での狭義の)強制連行の話
週プレニュース(アメーバニュース)が掲載した警官による強制連行の話
1、記事の概要
アメーバニュースが興味深い話を載せている。
親戚の料亭に遊びに行っていた伊佐さんは、そこで慰安婦にされた女性たちと接していた。
伊佐さんの記憶に残っている話をもうひとつ。戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。駐屯地の近くには料亭が2、3軒あった。どこも日本兵の慰安所になっていた。伊佐さんの親戚も「アブガドー」という屋号の料亭(慰安所)を経営していた。そこでは朝鮮半島から連れてこられた女性たちが4、5人働いていた。
13歳だった伊佐さんは、親戚の料亭によく遊びに行き、そこのお姉さんから三線(さんしん)を教えてもらっていた。色白で、いつも白粉(おしろい)の匂いがするとても優しいお姉さんだった。
2階には毎日40、50人の兵隊が並んで順番を待っていた。ある時、おかみさんが三線を教えているお姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言った。お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが聞いてもらえず、2階に姿を消した。着物の裾から見えた奥のほうが真っ赤にはれていた。少年の伊佐さんには意味がわからなかった。ただかわいそうだと思っていた。
そして戦後、慰安婦徴集に関わるある話を聞く。
こう書いている。
さて、多分アメーバ事業部には、今頃バカウヨ達の抗議、嫌がらせ、脅迫メールやファックスが大量に送られている事だろう。
先日の記事でも述べたがまあキチガイを相手にしているようなものなのだ。
バカウヨは「(官憲が主役の)慰安婦強制連行は無かった」と彼らの教義をほざくだけである。しかし、「銃を突きつけて脅して無理やり連行した」というような事例がまったく無かったとは言いきれないのである。
第一、それは占領地ではなされていたという事。
第二に、それは男性への工場や炭鉱への強制連行ではなされていたからである。
これまでこのブログでは第一はすでに多く書いて来たので、第二について述べて置きたい。
2、工場・炭鉱への強制連行(朝鮮人狩り)
戦時中のいわいる”朝鮮人狩り”は酸鼻を極めた。
朝鮮半島での強制連行は
①1939年からの事業主による募集
がなされたが、これに人が集まらないので
②1941年から官斡旋
がなされ
③1943年からは徴用令に徴集の時代となる。
アジア歴史資料センターが掲載する資料にも、こう書かれている。
復命書嘱託 小暮泰用依命小職最近の朝鮮民情動向並邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之右及復命候也昭和十九年七月三十一日管理局長竹内德治殿
右記各有志から席上希望として述べられた要点の内主なる項目のみを挙ぐれば(ヘ)今後朝鮮より供出する労務者は従来の如き募集又は官の強制斡旋方法を改め指名徴用制を速かに実施すること・・・七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何従来朝鮮内に於ては労務給源が比較的豊富であった為に支那事変勃発後も当初は何ら総合的計画なく労務動員は必要に応じて其の都度行はれた、所が其の後動員の度数と員数が各種階級を通じて激増されるに従って略大東亜戦争勃発頃より本格的労務規則が行はれる様になったのである。而して今日に於ては既に労務動員は最早略頭打の状態に近づき種々なる問題を露出しつつあり動員の成績は概して予期の成果を納め得ない状態にある、今其の重なる点を挙ぐれば次の様である。
凡そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある。徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行はれなかった、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される事態に立到ったのである。官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依って為されたのである。又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとっては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状態である。【レファレンスコード】B02031286700(ハ)、動員の実情アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、
「官の強制斡旋方法を改め」という事は、官斡旋が強制だったと言う事である。
「徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である」と書いてある事にも着目すべきである。
「・・・・・一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています。」
こうした資料の多くは
戦時期植民地統治資料 第7巻に多く集められている。http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002746863.html
アマゾンでも購入可能なので、興味のある方はぜひ目を通しておいていただきたい。
こうした公文を裏付けるような証言も多い。
例えばこういう話である。
うちの面に徴用令が来ると、人間がいないから出せませんじゃすまされなかった。徴用令は軍隊の召集令状と同じ重みがありましたからね。面役所のほうでぐずぐずしていると、兵隊とか憲兵を連れて来て、畑の中で仕事をしていようと、道を通っていようと片っ端でね。面の募集係も巡査も、どこの部落に何人の働き手がおる、どこの家には誰と誰がおるとか、手にとるように分かっていますからね。徴用令が来ても、うちの面にはやるだけの人間がもうおらんからと、嘘のことをいうて追い返すが、そういつまでも駆け引きはできん。病気の両親がおるとか、子供や女房が体が弱いとか、行かれない事情が、それぞれありましたよ。最後には、もうそんなことは理由にはならない。子供であろうと年寄りであろうと無差別でしたから。命令ですから反対はできん。強制して恨まれるのは面長とか、面役所の募集係でね。結局、もう村の人に顔が立たんから、面役所の何人かは、引率隊長として自分から志願して行きました。北海道や樺太の炭鉱、それに九州の炭鉱よ。うちの面は一二〇〇戸あって、五〇〇人徴用で行きましたからね。炭鉱で亡くなったら名誉の戦死だ。お国のために働いて死んで嬉しいと、心にもないことをいわんといけんやった。日本が戦争勝つために朝鮮人が死ぬる理由なんか一つもありませんからね。(中略)男がごっそり徴用にとられてから、子供ができんで、うちの面では急に人口が減りましてねえ」
当時を生きた鎌田澤一郎は『朝鮮新話』でこう書いている。
これについて鎌田は、「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」という話も書いているが、上に記した労務課事務官・田原実の話や小暮泰用、西実ら が述べているように、「寝込みを襲ふ」やら「半強制」やらであり、「今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っている」のである。
東京大学で「強制連行」を専門に研究している外村大教授 は
「「送出に無理せりたる為家族等と郡職員及面職員との間に大乱闘あり労務主任、次席等は顔面其他を殴打され負傷する等の騒ぎあり」というような事態があった」
と述べる。(植民地朝鮮の戦時労務動員―政策と実態―4、労働力需要増加と労務動員の困難化http://www.sumquick.com/tonomura/society/ronbun0)
大乱闘になるような動員があったわけだ。
男性の動員で「兵隊とか憲兵を連れて来て、畑の中で仕事をしていようと、道を通っていようと片っ端から連行」やら「寝込みを襲う」やらがなされていたとすれば、女性に対してそうした事がなされた可能性はまったくのゼロだろうか?
そんなことはないだろう。
「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がや ってきて「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰 り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベ もなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せ られ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
「 刀を吊った日本人の巡査(警官)」に脅され、「石ころのようにトラックに乗せ られ」た。
これが、吉田証言が有名になる前に書かれていた事を考えるべきである。
上記の伊佐真三郎さんの「銃を突きつけて脅して連行した」という話も、最初からそんな話は無かった事にしたいというバイアスのかかった人達以外は、無碍には否定しないだろう。
十分に有りうる話だからである。