秦郁彦の慰安婦「民族比率説」の問題点(1)関特演で動員された朝鮮人女性は3000人説
河野談話を守る会 総力特集
(右派雑誌が毎回のように「総力特集」とかやっているので、真似にしてみることにした。相当アホらしい)
秦論説では、慰安婦は2万人
その2割が朝鮮人慰安婦で
わずか「4000人」のはずなのだが・・・
秦が『慰安婦と戦場の性』に書いているこの「民族比率説」を否定するのは簡単である。
なぜなら、秦の諸論は相互矛盾を引き起こしているからだ。
ところが秦は、p94~p101で関特演について書いている。関特演というのは、日本軍が1941年夏に実施した対ソ作戦準備で、わずか3個師団程度(2個+駐劄1個師団+6個大隊)の満州関東軍が膨張し、70万人以上の大兵力となった。その時朝鮮人慰安婦の徴集がなされた。
この時、原善次郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約1万人(予定は2万)の朝鮮女性をかき集め北満の広野に送り、施設を特設して”営業”させたという一幕もあった。
(島田俊彦『関東軍』中央新書p176、文庫p222)
西岡力やネトウヨ達がしきりに攻撃して、なんとかなかったことにしたがっているこの島田俊彦の記述だが、さすがに歴史学会に長く身を置いた秦に完全否定などできるわけがない。元々海軍の戦史部にいた島田は、敗戦時に焼却命令が出ていた資料を秘匿保存し、その資料が今日の満州事変以来の戦史研究の基礎になっているhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65072856.html。もし、この島田資料が無ければ、今日の近現代歴史研究はまったく今とは異なるものになっていたであろう。『現代史資料7満州事変』は近現代史を探求する者には必読資料集の一つである。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65072856.html さらに憲兵隊の機関紙『憲友』や木原政雄憲兵らの証言からもこの時期満州に慰安所が開設された事は明らかなのである。
秦は島田や千田の記録したこの「8000人説」に「疑問が出た」とし(疑問は右派論壇から出ただけだが)、「新規増員の女性は何人ぐらいだったのか」と書き、その答えとして、原参謀の助手役で「命令伝達・通達・配置指示及び業者との接触等事務処理」を担当したという村上貞夫曹長の手記を掲載している。
村上曹長の手記によれば「記憶では3000人ぐらいだったと思う。」という。
3000人が「妥当な数字だ」と主張する秦郁彦
その際に秦は
「「三千」という数字は他の証言と合わせて検討してみると妥当なところ」
と述べている。
千田 では、実際には何人を集めたのか。「関東軍」(65年、島田俊彦著)では「一万人」とされているんですが、私が大阪に住んでいた原元参謀を探し当てて確かめたところ、「いや八千人」だったと言う。その数字を本で書いたら、原参謀の補助者で慰安婦集めの実務をやったという人から「じつは三千人しか集められなかった」と手紙が届いた。説明の緻密さから見て、この証言が正しいと思っていますが。それほど数字を確かめるのは難しいということです。 秦 「三千」という数字は他の証言と合わせて検討してみると妥当なところだろうと私も思います。 (『論座』、朝日新聞社 、1999,9 「歴史論争を総括する」秦郁彦・千田夏光の対談) |
ほとんど全ての慰安婦は関特演で動員されたと言える。
秦理論から割り出される比率から言えば、このうち150人くらいは、関特演で動員されていなくればならないはずである。しかし一人もいないとはどういう事なのだろうか?
さて続けよう。
もう4000人の内、3000人が埋まってしまった
後残りは、1000人しか枠がない。
最近、「テキサス親父が発見した」とか言ってネトウヨ達が騒いでいた『日本人捕虜尋問報告 第49号』という資料がある。実際にはもう23年も前から知られていた資料を発見などというのはバカじゃないかと思うが、この資料の中には、「朝鮮;人「慰安婦」703名がビルマまで海上 輸送されたと書かれている。http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html
すると、これでもう4000人のほどんどが埋まってしまっている。現在、3700人が埋まっており、秦説が正しければ、残りは300人しかいなかったという事になってしまう。
太平洋戦争勃発後の「慰安婦」大量動員
そしてこう書いている。
ところが、これまで見たように、秦説ではその新たに動員した女性は300人だけになってしまうのである。
それから、その次に秦が根拠に使っている<表12-14><表12-9>など図表の問題点を指摘しよう。この問題点の指摘はかなり長文になってしまいそうだがガンバリま~す。
備考)