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秦郁彦の慰安婦「民族比率説」の問題点(1)関特演で動員された朝鮮人女性は3000人説

 
 
 
   河野談話を守る会 総力特集
 
(右派雑誌が毎回のように「総力特集」とかやっているので、真似にしてみることにした。相当アホらしい)
 

       秦論説では、慰安婦は2万人
          その2割が朝鮮人慰安婦
             わずか「4000人」のはずなのだが・・・

 
こうした諸条件を考慮しつつ、私としては民族別比率は日本人(内地人、沖縄含む)で、現地(中国人、満州人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、混血女性など)がそれに次ぎ、朝鮮人は第3位と推定したい
・・・(略)・・・あえて比率を概数で示すと、4-3-2-1(内地人ー現地人ー朝鮮人ー其の他)となろう。
 
慰安婦と戦場の性』p410)
 
 秦が慰安婦と戦場の性』に書いているこの「民族比率説」を否定するのは簡単である。
 
なぜなら、秦の諸論は相互矛盾を引き起こしているからだ。
 
はp397~p406で、慰安婦の人数について計算している。この計算についてはすでにその問題点を指摘しているが、秦論説では慰安婦の総数は「2万人前後」だという。
 
慰安婦の総数が2万人だとするとそのわずか2割しかいない朝鮮人慰安婦は、計算上4000人という事になってしまう。
 
ところが秦は、p94~p101で関特演について書いている。関特演というのは、日本軍が1941年夏に実施した対ソ作戦準備で、わずか3個師団程度(2個+駐劄1個師団+6個大隊)の満州関東軍が膨張し、70万人以上の大兵力となった。その時朝鮮人慰安婦の徴集がなされた。
 
この時、原善次郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約1万人(予定は2万)の朝鮮女性をかき集め北満の広野に送り、施設を特設して”営業”させたという一幕もあった。 
島田俊彦関東軍』中央新書p176、文庫p222)
西岡力ネトウヨ達がしきりに攻撃して、なんとかなかったことにしたがっているこの島田俊彦の記述だが、さすがに歴史学会に長く身を置いた秦に完全否定などできるわけがない。元々海軍の戦史部にいた島田は、敗戦時に焼却命令が出ていた資料を秘匿保存し、その資料が今日の満州事変以来の戦史研究の基礎になっているhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65072856.htmlもし、この島田資料が無ければ、今日の近現代歴史研究はまったく今とは異なるものになっていたであろう。『現代史資料7満州事変』近現代史を探求する者には必読資料集の一つであるhttp://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65072856.html さらに憲兵隊の機関紙『憲友』や木原政雄憲兵らの証言からもこの時期満州慰安所が開設された事は明らかなのである。
 
秦は島田や千田の記録したこの「8000人説」に「疑問が出た」とし(疑問は右派論壇から出ただけだが)、「新規増員の女性は何人ぐらいだったのか」と書き、その答えとして、原参謀の助手役で「命令伝達・通達・配置指示及び業者との接触等事務処理」を担当したという上貞夫曹長の手記を掲載している。
村上曹長の手記によれば「記憶では3000人ぐらいだったと思う。」という。
 
 
   

       3000人が「妥当な数字だ」と主張する秦郁彦

 
「1975年執筆」というこの手記の出所を秦は明記していない。出典不詳だが、この慰安婦と戦場の性』の刊行直後、雑誌論座9月号の 「歴史論争を総括する」千田夏光と対談した際に、この話が出ている。
 
その際に秦は
「「三千」という数字は他の証言と合わせて検討してみると妥当なところ」
と述べている。
 
 
千田 では、実際には何人を集めたのか。「関東軍」(65年、島田俊彦著)では「一万人」とされているんですが、私が大阪に住んでいた原元参謀を探し当てて確かめたところ、「いや八千人」だったと言う。その数字を本で書いたら、原参謀の補助者で慰安婦集めの実務をやったという人から「じつは三千人しか集められなかった」と手紙が届いた。説明の緻密さから見て、この証言が正しいと思っていますが。それほど数字を確かめるのは難しいということです。
 「三千」という数字は他の証言と合わせて検討してみると妥当なところだろうと私も思います。    
 論座朝日新聞社 、1999,9 「歴史論争を総括する」秦郁彦千田夏光の対談)
つまり、関特演で動員された朝鮮人女性は3000人という説を秦は肯定しているのである。
 
 
多分ネトウヨ動画なのだろうが、内容はだいたいその通りなので、論座』動画をリンクしておこう。(背景の音楽がちょっとね)
 
4000人のうち3000人が関特演で動員された慰安婦だとすると、朝鮮人慰安婦のほとんどが関特演で動員されている事になる。その比率はおよそ7割5分である。
ほとんど全ての慰安婦関特演で動員されたと言える。
ところが韓国で200人以上名乗り出た慰安婦の中には「関特演での動員」を特定できるような女性がいない。北朝鮮女性の証言はよく分からないので省いている)
秦理論から割り出される比率から言えば、このうち150人くらいは、関特演で動員されていなくればならないはずである。しかし一人もいないとはどういう事なのだろうか?
 
さて続けよう。
 
 

        もう4000人の内、3000人が埋まってしまった

 
1941年夏の満州慰安婦だけですでに、4000人枠の内の3000人が埋まってしまった
 
後残りは、1000人しか枠がない。
 
 
最近、「テキサス親父が発見した」とか言ってネトウヨ達が騒いでいた日本人捕虜尋問報告 第49号』という資料がある。実際にはもう23年も前から知られていた資料を発見などというのはバカじゃないかと思うが、この資料の中には、「朝鮮;人「慰安婦」703名がビルマまで海上 輸送されたと書かれているhttp://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html 
 
 
すると、これでもう4000人のほどんどが埋まってしまっている。現在、3700人が埋まっており、秦説が正しければ、残りは300人しかいなかったという事になってしまう。
 
ところが1941年の終わりころから始まった太平洋戦争では、新たに赤紙で動員された数百万人の皇軍兵士がビルマ以外の南方の国々、島々にも出征したのだ。
 
その全てに対応する「慰安婦」がたったの300人だと秦は言いたいらしい。
 
 
 
      

  太平洋戦争勃発後の「慰安婦」大量動員

 
皇軍兵士の証言には「朝鮮人慰安婦が多くいた」という証言が多い。様々な戦場を経験した兵士にもそういう記述が見受けられるし、中国や南方にもそういう証言がある。
にも関わらず、秦によればそこには全体で300人しか朝鮮人慰安婦はいなかったという事らしいのである。(呆)
 
 
一方秦は、朝鮮人女性の慰安婦市場への大量進出が始まったのは1941年以降であると推測している
 
太平洋戦争が始まると「40万の大軍が新たに南方作戦に動員され、中部太平洋や南東太平洋にの島々にも増派されて、戦争末期にはこの地方の総兵力は100万内外に達した。」慰安婦と戦場の性』p103)
 
「業者や慰安婦の大半は日本内地や朝鮮・台湾から新たに進出したと思われる」慰安婦と戦場の性』p103)
 
そしてこう書いている。
「彼女たちの慰安婦市場への大量進出が始まったのは通説よりおそく、1941年以降であることを示唆している・・・」(慰安婦と戦場の性』p42)
(1940年以降)「それは戦地への慰安婦の大量進出を促す契機になったと思われる」(慰安婦と戦場の性』p45)
(いずれも朝鮮人慰安婦に関する記述である)
 
ところが、これまで見たように、秦説ではその新たに動員した女性は300人だけになってしまうのである。
 
 
太平洋戦争勃発後、兵士が送られると共に朝鮮人女性も南方にもたくさん送られたが、それが、たった300人だという事になってしまう秦説。こんなものを信用する人間が、本当にいるのだろうか?
 
 
さて、次回このカテゴリの続きは、皇軍兵士たちの朝鮮人慰安婦の数量への言及についてである。
 
それから、その次に秦が根拠に使っている<表12-14><表12-9>など図表の問題点を指摘しよう。この問題点の指摘はかなり長文になってしまいそうだがガンバリま~す。
 
 
 
 
備考)
バウネット・ジャパン編『「慰安婦」戦時性暴力の実態Ⅰ』緑風出版、2000年、p336

《資料1》関東軍による『慰安婦』動員に関する(『従軍慰安婦』著者千田夏光あての)手紙(の一節)
 
「(『従軍慰安婦』)文中の関東軍従軍慰安婦の件は原参謀大綱企画をし、命令伝達通達配置指示及業者との接触等事務処理は小生がいたしました。当初日本人慰安婦を集める予定でしたが、何分当時支那事変の最中で多くの日本人慰安婦支那大陸に渡り、その不足分を朝鮮人慰安婦を集めた訳で、原参謀は7000人と申して居られますが、小生の記憶では3000人位だったと思います。当時配置表が兵站班事務室の小生のロッカーにマル秘扱いで保管して居りましたが、終戦と共に処分した事と思います」