河野談話を守る会のブログ2

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日本人慰安婦についてのメモ・・・菊丸さんが語った慰安所


この話の中で重要な部分

>韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて<


>「将校専用の女性たちは幸せだったといえる。というのは、すぐ裏には横須賀の『小松』という民間経営の慰安所が出張営業をしていたし、また一般兵隊用の女性たちは、1日1人などという贅沢は認められなかったからだ。『私の知っているもので、1日に65人を相手にしたのが新記録だったと覚えています。その女性は翌日から2日間も起き上がれなかった』<

この採談が1971年に発表されたことを考慮しなければならない。吉田清治どころか、千田夏光がベストセラーになった従軍慰安婦を書く数年前に、「志願でない」朝鮮人女性たちが、船に乗せられて泣いていたことを、菊丸さんは証言しているのである。




南洋群島・トラック島。

慰安婦ーその名が示すように、戦地の将兵たちを慰める〝軍事要員〟である」

「芸者・菊丸もその一人」

「芸者・菊丸が高級将校用の慰安婦として当時の南洋群島トラック島に渡ったのは昭和17年3月17日であった。満19歳になったばかりのときである。菊丸さんは義務教育を北海道の夕張市で終えると17歳で東京・西小山の花街で芸者になった」

『私と仲のよかった仲間で五十鈴ちゃんというのが、南洋の前線基地で働こうという話を持ってきたのよ。お給料もかなりだったし借金も払ってもらえるという話でね』

「菊丸さんは、親友の五十鈴ちゃんとともに約100人近い女性たちとともに日本を離れたのだった。『横浜を出て神戸に寄って、それから韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて……私たちもつられて泣き出しましたよ。ほんとうにあの日本を出発して、トラック島に着くまでのなんともわびしい気持ちは忘れられません』」

「『上陸すると、そこがトラック島だったんです。最初はマーシャル群島に行く予定だったそうですが、マーシャルでは「女はいらん。兵と艦をよこせ」と断ったからなんだそうです』。女性たちは『士官用』と『兵隊用』に区別され、士官用だった菊丸さんたちは〝営業用〟の宿舎ができていなかったため、約1週間を沖縄人経営のクラブ『南海』で過ごす。兵隊用の女性たちは『第一南月寮』『第二南月寮』の2軒に分けられ、翌日から営業開始というあわただしさであった」

「島での生活は想像以上に快適な毎日だった。偉い将校サンたちのお相手とはいえ、兵隊用の女性や民間の慰安婦と違って『1日1人』と決められており、それも島にいる少尉以上の将校は少なく、船が寄港したときに忙しくなる程度であった」

「将校専用の女性たちは幸せだったといえる。というのは、すぐ裏には横須賀の『小松』という民間経営の慰安所が出張営業をしていたし、また一般兵隊用の女性たちは、1日1人などという贅沢は認められなかったからだ。『私の知っているもので、1日に65人を相手にしたのが新記録だったと覚えています。その女性は翌日から2日間も起き上がれなかった』」

「南洋の島々にも戦火が迫り、急を告げはじめてきた。希望者(もちろん女性だけ)は日本に帰ることになったのである。昭和18年12月、第一陣が『朝日丸』で帰国した」


平塚柾緒『知られざる証言者たちー兵士の告白』 p339ーp349
2007年発行。(週刊アサヒ芸能1971年連載))


河野談話を守る会論文
「日本人慰安婦について」


「泣いていた」
創価学会青年部反戦出版委員会編
『戦争を知らない世代へ9・宮城編 生死の炎をこえてー出征兵士の手記』
第三文明社、1975年
同書中、「トンネル暮らしのラバウルで」と題する53歳男性の手記。筆者は、昭和16年、海軍の久里浜・通信学校に入学した。
昭和17年、ラバウル

「通信学校にいた時、日米開戦となった」「通信学校を卒業した私はラバウルへ向かった。航海中は敵襲を避けるために蛇行の連続である。そして私の乗った船の中には朝鮮人女性が慰安婦として乗せられていた。皆が船の中で泣いていた。途中寄港したトラック島では日本人囚人が飛行場造りということで降ろされた。いよいよラバウルへ入港したが、その翌朝、早々とニューギニアポートモレスビー米軍飛行基地から発進した敵機の空襲に見舞われた」 (p153~155)