「挺身隊」として徴集された 木下博民著『戦場彷徨ー鯨部隊一兵士の大陸青春記』、品野実著『異域の鬼』
このブログでは「挺身隊」に関して、すでにいくつかの元軍人・兵士の話を掲載している。
「初め女子勤労挺身隊として徴用され」と慰安婦に聞いた角田和男氏の著作。
また米軍新聞「ラウンドアップ」1944年11月30日付記事には、「シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC"organizations )の募集を始めた」と書かれている。
今回また見つけたので掲載しておこう。いずれも、慰安婦問題が戦後補償の問題となった1991年以前に書かれた著作である。
1981年に書かれた品野実氏の『異域の鬼』には
「将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ」
と書かれている。
この船内で泣いていたという話は、先日掲載した菊丸さんの話にも出ていた。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65271087.html
木下博民著『戦場彷徨ー鯨部隊一兵士の大陸青春記』ヒューマンドキュメント社、1987年。
昭和20年春、中国・武昌。私は、武昌で片付けなければならない用事があった。満州を去るとき、関東軍派遣の普通科専修生から、手紙を託かって来ていた。叔父さんが武昌の憲兵隊長をしているので、もし会って頂ければ、何とか便利なこともあるでしょうから、と言ってくれた。(略)出てきた隊長は、温厚そうな人であった。(隊長と話しているうち)突然、憲兵軍曹が入ってきた。私を見て、ちょっとためらったが、手帳を示しながら言った。「只今、全員異状なく到着しました」「何人だ」「53人です」「たくさん集まったな。いい娘がいるか」「はい。案外元気です」「木下さん、あなたの(南京・下関から)乗ってきた船と同じじゃなかったのかな」と、隊長は私に尋ねた。「は……」「朝鮮人の女子挺身隊がいませんでしたか」「……いえ、知りませんでした」「最近は、なかなかいい娘が集まらなくてね。――ご苦労だった」と軍曹を下がらせてから、「そうそう、これから前線には、十分な慰安所もない。あなたも、ここで思い切り遊んでいらっしゃい。武昌では、まだまだ今日のように集めることができますからね。彼女ら、どうしても前線へは行きたがりません」
(p216~218)
敗色濃厚な1945年になっても「武昌では、まだまだ今日のように集めることができます」・・・だったらしい。
品野実著『異域の鬼』谷沢書房、1981年発行。
著者の体験、戦友の証言、戦況など
中国・拉孟「拉孟では、建設隊のほかに各隊からも作業兵を出して、兵舎営門を出たところの記念碑高地と裏山陣地の間を切り拓き(慰安所)2棟を建てた」
「第一陣が到着したのは昭和17年の暮れも押し詰まっていた。初めは朝鮮娘10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ。(p194)