河野談話を守る会のブログ2

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【浅野 豊美氏の話を聞く】 「看護婦とかは、戦地から脱出させるが、慰安婦だけは脱出させなかった」



「近代日本史料研究会」という研究会がある。http://kins.jp/index.html

元「新しい歴史教科書を造る会」理事、現在日本教育再生機構」顧問の歴史学者である伊藤隆 氏のやっている研究会である。

その研究会に浅野 豊美氏を呼んで話を聞いたらしい。浅野 豊美氏は学生時代伊藤 氏のゼミ生だった。現在早稲田の早稲田大学政治経済学部教授だがhttps://twitter.com/ToyomiAsanoそのシンポジウムには、造る会の藤岡たちが集団で押し寄せ「ジジツ、ジジツ」と叫んだという。

この浅野氏、慰安婦問題ではなかなか示唆に富む論文を書いていて、その論文の中で敗戦時の慰安婦の虐殺についても書いている。論文からそのページを抜き出しておこう。


イメージ 1


<クリックして拡大> (赤線は当会による)

「手榴弾を投げ込んで殺した慰安婦だったかもしれない」


その話は研究会ではしていないが、写真を入手した経由については述べている。





前略)
次に、<慰安婦関係>の調査の説明をさせていただきます。これだけは本当に私の専門研究からは遠いテーマです。歴史や記憶をめぐる言説中心の論争に違和感を感じていたこともあり、真相究明に役立つ史料を探してくるという仕事を請け負って出かけていったことがきっかけだったのですが、これだけ話題になった問題なので、一種の社会的な奉仕というかボランティアとして、何とか真相究明といわれているようなものに少しは役立ちたいと思っておりました。その成果の一部を、最近まとめて『世界』という雑誌に発表しました。
(中略)
浅野 ええ、1942 年 7 月ぐらいに朝鮮を発って、約 702 名が輸送船でビルマに送られるんです。それは、南方軍総司令部から朝鮮軍司令部に対してある一定の人数を派遣してほしいという要請があって、朝鮮軍司令部のほうで業者に貸し付けるお金とかを用意して、業者にサジェスチョンというか示唆を与え、「これだけの人数を集めてこい」 ということで、お金を貸し付けて集めたと言われています。その証拠になるのは、木村エイブンというビルマで捕まった業者が捕虜になって尋問された時の記録です。連れて来られたあとは、当時ビルマに約 30 万人ぐらいだと思いますけれど兵隊さんがいて、各師団ごとにくじ引きで配属されて行ったわけです。 私が取り上げたのは、特に第 56 師団、いわゆる龍兵団と言われるミトキーナ(中国語読み:ミチナ〔密支那〕)を守っていた兵団と、第 18 師団、菊兵団と呼ばれている雲南方面を守備していた師団です。ビルマの北の方ではインパール作戦が壊滅して大敗北になってしまった後に、フーコン峡谷をつたって、英印軍が向こうのほうからどんどん攻めて押し返してきます。 他にも、 アメリカと中国の連合軍がフーコン峡谷をつたって攻めてくる。いわゆるガラハットというアメリカ式の訓練を施された中国軍がなかなか強かったわけなんですけれども、雲南方面からもまた同じように蒋介石が直接命令した強力な中国軍が攻めてきて、要するに挟み撃ちにされてしまいます。分断され、どちらも十分な支援をうけられない状態で玉砕していくという形になります。慰安所の経営に関してはいろいろな、収拾がつかない論争がありますが、見過ごされているのは、慰安所というのが後方地帯にあったことだと思います。そこが最前線化する、つまり戦闘が始まって、そこが本当に最前線地帯化した場合にどうなるかという、これが私の問題提起です。つまり、一応民間人ということであったら、やはり民間人に対して情報を提供して、戦闘が始まりそうな気配があれば、優先して後方に避難させるということは一応軍の義務としてありますし、実際に陸軍看護婦とか日赤の看護婦とかは、ミトキナーからは戦闘が始める 3 ヵ月ぐらい前に筏で流して、南のバモーとかに脱出させるということが行われています。でも、慰安婦だけは何故か残されて、そのまま軍の中に組み込まれてしまったという点で、慰安婦の性格がそこから浮かび上がってくるように思います。


しかし、事態はいろいろ複雑で、最前線の現地部隊長の側では、何度も慰安婦を戦闘に巻き込まないために後方に避難させてあげようと思っているうちに、機会を逃してしまったという回想録もあります。
また、56 師団中、雲龍会という生き残った方々の同期会の記録には、拉孟、騰越という玉砕があった二つの街の前線での守備兵力が、拉孟が何百人、騰越が何千人という形で書いてありますが、「在留邦人」 が8人とか十何人という形で出ています。 その在留邦人というのがいわゆる慰安婦のことなんですけれども、「在留邦人の戦闘への貢献も非常に目覚ましいものがあった」と書かれてあるんです。要するにちょっと後ろめたい気持ちもあって、当事者としてはそういう言葉を使いつつ、ともかく彼女達のことを忘れ去ってはならないという思いを込めて、そういう言葉を使ったんだと思います。これらは防衛庁に所蔵されているありふれた史料です。でも、今までさしたる関心も払われず、しかるべき分析も行われてこないまま眠ってきたというわけです。私がそれをアメリカの史料と対応させることで、ありふれた史料が輝き始めたということでしょうが。 アメリカ軍が撮った写真の中には、 尋問記録に出てきた慰安婦達の姿も写っていますし、また写真では慰安婦とばかり思い込まれていた女性が、実は尋問記録を見ると陸軍看護婦で、本当に例外的な朝鮮人の陸軍看護婦だったという例もあります。今までよくセンセーショナルな写真として取り上げられていた、一人、微笑しながら写っている髪の毛が長く美しい女性がそれです。その辺から陸軍看護婦のことを本当に調べたいなとチラッと思っていますけれども、この辺はまだ……。
(後略)

(下線は当会によるものである)
 (上記文章中「木村エイブン」と書かれているのは「北村エイブン」の間違いである)


ここで
戦闘が始まりそうな気配があれば、優先して後方に避難させるということは一応軍の義務としてありますし、実際に陸軍看護婦とか日赤の看護婦とかは、ミトキナーからは戦闘が始める 3 ヵ月ぐらい前に筏で流して、南のバモーとかに脱出させるということが行われています。でも、慰安婦だけは何故か残されて、そのまま軍の中に組み込まれてしまった

と述べていることが重要な部分である。

「実際に陸軍看護婦とか日赤の看護婦とかは、ミトキナーから脱出させるが、「慰安婦だけは脱出させない」

そして玉砕の道連れにしたのである。

慰安婦の霊たちが怒りと恨みに狂うのも当たり前ではないか?

日本政府は<慰安婦の慰霊碑>を造るべきである。

慰安婦」は軍の一部であり、そして兵士同様に、部品のような扱いを受けたからである。「部品」と言わず「消耗品」と言った方がいいだろうか?

”必要だが、使い捨て” それが「消耗品」である。

大日本帝国は、兵士と慰安婦を共に、使い捨てにして一体どこに行こうとしていたのだろうか?





* 『戦場の盾にされた「慰安婦」たち--ビルマ雲南最前線で日本軍玉砕の道連れに』
世界」667、1999-11号、269~280に掲載